柳沢吉保
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翌宝永2年(1705年)1月15日には国替に際した家中禁令を改定している[11]。同年2月19日の甲府城受け取りは家臣の柳沢保格・平岡資因らが務めている[11]。3月12日、駿河の所領を返上し、甲斐国国中地方3郡(巨摩郡山梨郡八代郡)を与えられる[10][11]。吉保が拝領した15万石余の石高表高であり、実際には内高を合わせて22万石余を有していた[10][11]

同年4月10日から4月12日には甲斐恵林寺(現在の山梨県甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっている[11]。吉保はこの法要において自身が武田氏に連なる一族であることを強調している。

同年4月29日と6月12日には国中三郡の領知朱印状・領地目録を受け取っている[11][12]。5月3日には甲斐国内の所持者に祈祷領米を寄付している[11]

同年5月11日には側室の飯塚染子が死去し、龍興寺に葬られた[3][11]。染子は多くの和歌を残しており、吉保は染子没後に『染子歌集』を編纂している[3]

5月13日には黄檗宗寺院の萬福寺京都府宇治市)の悦峯道章に禅問答を行っている[11]。吉保は7月9日に甲斐国内への菩提寺建立を発意し、8月21日には岩窪村(甲府市岩窪町)に境内地を定めた[11]。8月13日に吉保は自身の参禅録を編纂し、これを霊元上皇に対して題を出願している[11]。これに対して、9月23日に霊元上皇は吉保に「護法常王録」の題を授けた[11]

吉保は大老格の要職にあったため江戸を離れて甲斐を訪れることはなかったが、甲府に配置した家老の薮田重守に指示し、甲府城・城下町の整備、検地の実施、井堰(用水路)の整備、甲州金の一種である新甲金の鋳造などを行っている[10]。また、柳沢時代の年貢割付状では柳沢氏入国前に行われた検地増分を減免し、実質的な減税を行っていた[13]

吉保側室に正親町町子がいる。町子の出自は諸説あるが、実父は正親町公通で、母は水無瀬氏信娘とする説がある[3]。正親町公通は霊元天皇使者として江戸を度々訪れており、霊元天皇は吉保の和歌へ添削を行い、六義園十二境を定めたことや参禅録に題を授けるなど和歌や文芸面において吉保へ影響を及ぼしている[3]。また、この場合に町子の母となる水無瀬氏信娘は新上西門院房子(鷹司房子)の侍女で「常磐井」を称し、房子の伯母にあたる鷹司信子が将軍綱吉の御台所になると、常磐井は「右衛門佐局」と改名して信子に従い下向し、江戸城大奥総取締役となっている[3]。ちなみに、右衛門佐局の実兄町尻兼量の娘・量子は、近衛家煕の側室となって中御門天皇女御近衛尚子を生んでいる[14]。正親町町子も、こうした両親の縁により江戸へ下向し、吉保の側室になったと考えられている[3]。町子は後に吉保の半生を王朝風の日記文学として記した『松蔭日記』を記している。

元禄15年(1702年)に将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位に叙されたのも、吉保が関白近衛基煕など朝廷重臣達へ根回しをしておいたおかげであった[要出典][注釈 3]宝永2年(1705年)、家門に列する。宝永3年(1706年)1月11日には大老格に上り詰めた。
吉保の隠居と晩年

宝永6年(1709年2月19日、将軍綱吉が死去すると幕閣の状況は一変した。幕政の中心は新将軍家宣とその家臣である間部詮房らに移り、綱吉の近臣の勢いは失われていった。同年5月28日に吉保は隠居を願い出て、6月3日にこれが許されると吉里が柳沢家の家督を相続した[15]。以降は保山と号した。同年6月3日に吉保は子の経隆・時睦に甲斐国山梨郡・八代郡の新墾地1万石を分地し、甲府新田藩が成立する[15]

隠居後は江戸駒込(東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、綱吉が度々訪れた六義園の造営などを行った。正徳2年(1712年)には定子が死去し、甲府近郊の岩窪村に建立された永慶寺(甲府市岩窪町)において葬儀を実施する[15]。同年11月晦日には祖父・信俊の百回忌を川越領今市の高蔵寺において実施している[15]。正徳4年(1714年)9月27日には持病の再発により病臥し、同年11月2日に死去した[15]享年57[15]法名は永慶寺保山元養。

遺骸は甲斐国へ移送され、同年11月12日には永慶寺に到着し、11月12日から11月21日にかけて、永慶寺住職の悦峯道章により葬儀が実施される[15]。享保9年(1724年)3月11日に吉里は大和国郡山への転封を命じられ、永慶寺の大和郡山移転に伴い同4月12日に吉保夫妻の遺骸は恵林寺(甲州市塩山小屋敷)へ改葬され、現在まで恵林寺が吉保の墓所となっている。

死後200年を経た大正元年(1912年)には従三位が贈位されている。
人物・逸話
『楽只堂年録』

柳沢吉保の甲陽日記として『楽只堂年録』(らくしどうねんろく)がある。全229巻[1]。『楽只堂年録』は『徳川実紀』に倣い、荻生徂徠により編纂された吉保一代の事業禄で、同様に吉里の一代記としては『福寿堂年禄』が編纂されている。

『楽只堂年録』は和文体と漢文体の諸本が存在し、内容は吉保に至る柳沢氏歴代の系譜から、宝永6年(1709年)に家督を吉里に譲り隠居するまで吉保一代の治績が記されている。原本は柳沢文庫に所蔵されており、現代仮名遣いの翻刻が刊行されている。幕政だけでなく、元禄地震など災害を含む世相や文化についての貴重な記録でもある[1]

なお、吉保の一代記には、他に柳沢家家老・薮田重守により編纂された『永慶寺殿公御実録』がある。
柳沢吉保の肖像

『楽只堂年録』によれば、吉保は元禄15年(1702年)に狩野常信の筆による三幅の寿像を作成させている。現在ではこのほかに一幅が加わり、四幅の肖像が伝来しており、翌元禄16年(1703年)秋には肖像に自ら賛文を記している[11]


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