柳条湖事件
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^ 中国や英語圏では爆破事件そのものを「柳条湖事件」、その後翌日まで続いた戦闘は「九一八事変」もしくは「奉天事件」として区別している
^ 1935年(昭和10年)に奉天で生まれた世界的な指揮者小澤征爾の名は、板垣征四郎と石原莞爾の名より1字ずつとって命名されたものである。
^ 実行グループは、買収した中国人2人を殺害して中国兵の服を着せ、爆破現場に2人の遺体を捨てて中国軍の犯行と偽装した[6]
^ 戦後、現代史家の秦郁彦が花谷中将など関係者のヒアリングを実施し、柳条湖事件の全容を明らかにしている。花谷中将の証言は秦が整理し、1955年(昭和30年)に「花谷正」の名で河出書房より『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」 昭和30年12月号)として発表され、大きな反響を呼んだ。秦はこののち、事件に係わった他の軍人のヒアリングも実施したが、秦によれば、その聴取内容からも花谷証言が正確であったことが確認されるという[8]
^ 歩兵第一大隊(公主嶺)・第二大隊(瀋陽)・第三大隊(大石橋)・第四大隊(連山関)・第五大隊(鉄嶺)・第六大隊(鞍山)で構成されていた[9]
^ 破損の計測値については0センチメートルから100センチメートルまで諸説があるが、いずれも軽微な破損にとどまる[10]
^ この見解は、戦後の花谷証言にもとづいている。それに対し、山田勝芳は、線路爆破によって急行列車が脱線しなかったことは、板垣らにとって大きな誤算ではなかったかとしている。日本人乗客も多数乗っていた急行が脱線し、死傷者が出たということになれば、事件報道は、より刺激的で扇情的なものとなったことは確実であり、日本国内の反中感情や満洲での事変拡大支持を一挙に拡大、獲得できたものと考えられるからである[11]
^ 1928年から30年にかけて、在満朝鮮人と中国人との間で起こった紛争は100件におよんだといわれる[16]
^ この決定と措置について、政治外交史研究者の川田稔は、若槻首相は、増派問題は南陸相の辞任をまねきかねず、さらに後継陸相が得られない場合は内閣総辞職という重大な事態にいたる可能性があり、そうした事態を回避するために朝鮮軍の満洲派兵と経費支出を承認したものと推定している。また、そのことにより、基本的には事変不拡大の線で対処しようとしている南陸相の、陸軍内での影響力保持に協力するとともに、南陸将・金谷参謀総長との信頼関係を再構築したのではないかと論じている[27]
^ この経緯について、若槻は『古風庵回顧録』に「命令を聞かぬ軍隊」と題して詳述している。
^ これはラジオの臨時ニュース第1号といわれ、以後、子どもたちにも波及して「臨時ニュースです」は流行語になった[29]
^ しかし、その石橋も上海事変の際には日本軍を支持する見解を表明している[31]
^ 山田勝芳は、徐・王をはじめとする中国人研究者も島田の研究を意図的に無視した形跡があることを指摘し、問題視している[38]

出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 森(1993)pp.20-23
^ a b c d e f g h i j k l m n o p 川田(2010)pp.16-19
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 山田(2010)pp.1-36
^ 森(1993)pp.18-20 および 『1億人の昭和史1』(1975)p.38
^ a b c d e f 『1億人の昭和史1』(1975)pp.35-41
^ 『1億人の昭和史1』(1975)p.39
^ a b c d e f g h 臼井(1974)pp.36-46
^ 秦(1999)
^ 山田(2010)p.9
^ a b 江口(1993)pp.602-603
^ 山田(2010)p.22
^ a b c d e f g h i j k 川田(2010)pp.19-20

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