柳条湖事件
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事件のおよそ1ヶ月前に当たる同年8月20日に赴任したばかりの本庄繁を総司令官とする関東軍総司令部は、関東州南端の旅順に置かれており、幕僚には参謀長として三宅光治少将、参謀として板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、新井匡夫少佐、武田寿少佐、中野良次大尉が配置されていた。独立守備隊の司令部は長春市南方の公主嶺(現吉林省公主嶺市)に所在し、司令官は森連中将、参謀は樋口敬七郎少佐であった[注釈 6]。第二師団の司令部は奉天南方の遼陽(現遼寧省遼陽市)に設営されており、第三旅団(長春)と第十五旅団(遼陽)が所属、前者に第四連隊(長春)・第二十九連隊(奉天)、後者に第十六連隊(遼陽)・第三十連隊(旅順)などが所属した[2][3]板垣征四郎

この爆破事件のあと、南満洲鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしているが、関東軍兵士によって立ち入りを断られている。また、爆破そのものは小規模なものであり、レールの片側のみ約80センチメートルの破損、枕木の破損も2箇所にとどまった[2][7][注釈 7]。爆破直後に、瀋陽午後10時30分着の長春大連行の急行列車が現場を何事もなく通過していることからも、この爆発がきわめて小規模だったことがわかる。今日では、爆発は線路の破壊よりもむしろ爆音を響かせることが目的であったと見る説も唱えられている[10][注釈 8]1931年9月18日から19日にかけて関東軍(独立守備隊)の攻撃をうけた北大営

川島中隊(第二大隊第三中隊)はこのとき、瀋陽の北約11キロメートルの文官屯南側地区で夜間演習中だったが、爆音を聴くや直ちに軍事演習を中止した[7]。中隊長の川島大尉は、分散していた部下を集結させ、北大営方向に南下し、瀋陽の特務機関で待機していた板垣征四郎高級参謀にその旨を報告した。参謀本部編集の戦史では、南に移動した中隊が中国軍からの射撃を受け、戦闘を開始したと叙述している[7]。板垣参謀は特務機関に陣取り、関東軍司令官代行として全体を指揮、事件を中国側からの軍事行動であるとして、独断により、川島中隊ふくむ第二大隊と奉天駐留の第二師団歩兵第二十九連隊(連隊長平田幸広)に出動命令を発して戦闘態勢に入らせ、さらに、北大営および奉天城への攻撃命令を下した[2][3][5]。北大営は、奉天市の北郊外にあり、約7,000名の兵員が駐屯する中国軍の兵舎である。また、市街地中心部の奉天城内には張学良東北辺防軍司令の執務官舎があった。ただし、事件のあったそのとき、張学良は麾下の精鋭11万5,000を率いて北平(現在の北京)に滞在していた[2][3]

本庄繁関東軍司令官と石原作戦参謀ら主立った幕僚は、数日前から長春、公主嶺、瀋陽、遼陽などの視察に出かけており、事件のあった9月18日の午後10時ころ、旅順に帰着した。しかし、このとき板垣高級参謀だけは、関東軍の陰謀を抑えるために陸軍中央から派遣された建川美次少将を出迎えるという理由で瀋陽に残っていた[2]。午後11時46分、旅順の関東軍司令部に、中国軍によって満鉄本線が破壊されたため目下交戦中であるという奉天特務機関からの電報がとどけられた[12]。しかし、これは板垣がすでに攻撃命令を下したあとに発信したものであった[12]日本軍(第二師団)の奉天入城

知らせをうけた本庄司令官は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。しかし、石原ら幕僚たちが瀋陽など主要都市の中国軍を撃破すべきという強硬な意見を上申、それに押されるかたちで本格的な軍事行動を決意、19日午前1時半ころより石原の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した[12]。また、それとともに、かねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した[12]。本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、その規定は無視された[13]。攻撃占領対象は拡大し、瀋陽ばかりではなく、長春、安東鳳凰城営口など沿線各地におよんだ[12]

深夜の午前3時半ころ、本庄司令官や石原らは特別列車で旅順から奉天へ向かった。これは、事件勃発にともない関東軍司令部を瀋陽に移すためであった。列車は19日正午ころに奉天に到着し、司令部は瀋陽市街の東洋拓殖会社ビルに置かれることとなった[12]奉天城内を守る日本兵(同仁薬局前)

いっぽう、日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は当初不意を突かれるかたちで多少の反撃をおこなったが、本格的に抵抗することなく撤退した[2]。これは、張学良が、かねてより日本軍の挑発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の中国軍に指示していたからであった[2]。北大営での戦闘には、川島を中隊長とする第二中隊のみならず、第一、第三、第四中隊など独立守備隊第二大隊の主力が投入され、9月19日午前6時30分には完全に北大営を制圧した[7]。この戦闘による日本側の戦死者は2名、負傷者は22名であるのに対し、中国側の遺棄死体は約300体と記録されている[2]

奉天城攻撃に際しては、第二師団第二十九連隊が投入された[7]。ここでは、ひそかに日本から運び込まれて独立守備隊の兵舎に設置されていた24センチ榴弾砲(りゅうだんほう)2門も用いられたが、中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去した[2]。午前4時30分までのあいだに奉天城西側および北側が占領された[7]。瀋陽占領のための戦闘では、日本側の戦死者2名、負傷者25名に対し、中国側の遺棄死体は約500にのぼった[12]。また、この戦闘で中国側の飛行機60機、戦車12台を獲得している。

安東・鳳凰城・営口などでは比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態に入った[12]。しかし、長春付近の南嶺(長春南郊)・寛城子(長春北郊、現在の長春市寛城区)には約6,000の中国軍が駐屯しており、日本軍の攻撃に抵抗した。日本軍は、66名の戦死者と79名の負傷者を出してようやく中国軍を駆逐した[12]。こうして、関東軍は9月19日中に満鉄沿線に立地する満洲南部の主要都市のほとんどを占領した[12]

9月19日午後6時、本庄繁関東軍司令官は、帝国陸軍中央の金谷範三参謀総長に宛てた電信で、北満もふくめた全満洲の治安維持を担うべきであるとの意見を上申した。これは、事実上、全満洲への軍事展開への主張であった。本庄司令官は、そのための3個師団の増援を要請し、さらにそのための経費は満洲において調達できる旨を伝えた[12]。こうして、満洲事変の幕が切って落とされた。

9月20日、瀋陽から改称された奉天市の市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が任命され、日本人による臨時市政が始まった[5]9月21日、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で混成第三十九旅団に越境を命じ、同日午後1時20分、部隊は鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に入った。
事件決行までの経緯
日中関係の緊迫化万宝山事件の衝突現場

1928年(昭和3年、民国17年)の張作霖爆殺事件ののち、息子の張学良は反日に転じた。張学良政権は南京の国民政府と合流し、満洲では排日事件が多発した。1930年(昭和5年、民国19年)4月、張学良は満鉄への対抗策として満鉄並行線を建設、そのため南満洲鉄道会社は創業以来はじめて赤字に陥り、深刻な経営危機に陥っている[14]


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