柳川平助
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柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年明治12年)10月2日 - 1945年昭和20年)1月22日)は、長崎県出身の日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将で、陸軍省事務次官、興亜院初代総務長官、司法大臣国務大臣大政翼賛会副総裁を歴任した。皇道派の重鎮。
経歴

1879年長崎県長崎市西彼杵郡村松村で真円真珠の養殖をしていた楠木(くすのき)家に生まれる。大村湾真珠株式会社。内海出身。旧姓楠木平助。後の大村市設立に兄と参画。

幼少時に佐賀県の柳川家の養子となる。父は楠木友太郎。実兄・楠木志能夫(しのぶ、1953年死去)は、長崎県大村市の眼科医で地域医師会長。妻は天領長崎市唯一の武家屋敷深堀鍋島家の筆頭家老の深堀猪之助の娘、静子。静子の妹が菊子。平助の相婿が特攻隊菅原道大。陸軍次官時代には兄を交えた10人で家族写真を撮っている。

尋常西海小学校旧制・県立長崎中学校=長崎英語伝習所卒。日本初の官制英語学校。密入国で長崎に勾留のラナルド・マクドナルドが日本初の英語教育を施し、マシュー・ペリー来航時の通訳を務めた森山栄之助の出身。

1895年に11月~96年2月に広島の代議士八田謹二郎と小泉甚右衛門と手紙交換。

1900年陸軍士官学校(12期)を卒業。

1904年-1905年中尉日露戦争旅順戦に従軍。

1912年(大正元年)に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官。

1918年(大正7年)に駐中国武官として、北京陸軍大学校に教官として赴任。

1920年8月19日参謀本部。イギリスフランスにて、ベルサイユ講和条約交渉の日本代表団の外交武官として派遣。3年間の国際連盟駐在中は、第一次世界大戦で活躍した連合軍総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥から兵法を修習。元帥とは10月2日生、カトリック、厳格な反ドイツという共通点がある。イギリス騎兵隊とフランス騎兵隊から学ぶ。

ほかにフランスにてトリアノン条約におけるハンガリーの領土割譲を交渉する。チェコスロバキア共和国セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちのユーゴスラビア王国)、ルーマニア王国に割譲した。

1922年8月15日に陸軍大佐。1923年1月1日宇垣一成に絵葉書。

1923年に騎兵第12連隊隊長。

1925年5月1日に参謀本部演習課長。この際には、当時の部隊の旅先旅館にて、部下らが羽目を外す中、阿南惟幾は寛容なカドが立たない対応をしたのに対して、カトリックの影響の強かった長崎出身の為か、派手な部下を叱責したと対比される。

1927年4月1日に陸軍少将。騎兵第1旅団長となり第1次山東出兵。

1929年8月1日に騎兵学校長。

1930年に騎兵総監。

1931年12月12日に陸軍中将。

1932年8月8日に犬養毅内閣荒木貞夫陸軍大臣の下で陸軍次官に就任。真崎甚三郎らと皇道派の重鎮を担う。陸軍次官として国産大衆自動車工業の確立に関わる。

1933年6月に省部会議「満州事変後の大陸国防の方針討議」を開催。荒木陸相、柳川次官、山岡軍務局長、山下軍事課長、真崎参謀次長、梅津総務部長、古荘第1部長、永田第2部長、小畑第3部長、鈴木作戦課長が参加。永田鉄山の「北支への南進一撃講和論」と皇道派の「戦線不拡大」と意見が割れる。この頃から統制派が、皇道派の追放と対英米開戦を計画。

またこの頃、柳川らは、外務省欧米局嘱託で英仏独に留学した反ナチス昭和研究会佐々弘雄から、ヴァイマル共和国のハイパーインフレの惨状を聞き、軍事・経済の双方で敗北状態のドイツ式の問題点を危険視。


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