柳家金語楼
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1921年ごろ、金三時代
柳家金語楼(左。当時柳家金三)、橘家圓晃(中央。当時三遊亭窓之助)、六代目三遊亭圓生(右。当時五代目橘家圓好)とともに

1921年 陸軍に入隊(朝鮮龍山に駐屯の第20師団歩兵第72連隊)。同期入隊に長唄芳村伊十郎浪曲初代港家小柳丸清元・清元梅次がいた。戦地では紫斑病に侵され頭髪が抜け落ちる。突然体中に紫色の斑点が出て衛戍病院で診察を受けると紫斑病と診察される、薬を貰い5日ほどで斑点が消え完治するが、その薬の副作用で体中がヒリヒリし髪の毛が途端に抜け落ちた。

1922年 除隊。新作の「噺家の兵隊」で売り出す。兄弟子初代柳家三語楼門下に移籍。

1924年6月 初代柳家金語楼となる。

1930年 6代目春風亭柳橋らと日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を結成。

1942年 警視庁に落語家の鑑札返上(噺家廃業)。

喜劇俳優としての芸歴および戦後の活動

1928年 曾我廼家五九郎に勧められ、五九郎劇『二等兵』に出演。

1936年1月 出版社「金語楼社」を設立、自ら編集長となり広報誌「笑話」を月刊で出版、9か月で資金不足で廃刊。

1938年 吉本興業に所属。吉本と大阪朝日新聞主催の慰問団「わらわし隊」に参加。

1940年 金語楼劇団旗揚げ。

1944年 戦争が激しくなり、この頃は舞台中でも空襲警報が鳴ったり、空襲で火事が起きた時などは軍服に着替え受け持つ地域の消火準備や消火に当たる警備召集の任務に就いた。

1945年 知人の軍人の紹介により@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}陸軍航空本部所属となり、中佐として飛行場建設特設隊の任務に就く[要出典]。肩書だけで主に活動は慰問隊であった。8月の終戦和歌山の高射砲隊の慰問中に山の農家の小屋のラジオ放送で知る。あまりにもショックでその場に立ち尽くした。すぐに大阪に戻って給料替わりで配給毛布などを受け取り家族の住む疎開先の山形に行き過ごす。しばらくして映画などの活動を再開。

1953年 NHKテレビジェスチャー』出演。

1954年 日本喜劇人協会結成。副会長就任。

1956年 ラジオ東京テレビおトラさん』放送開始。当たり役となる。

1967年 紫綬褒章を受章。

1968年 日本喜劇人協会会長就任。

1972年10月18日、仕事中に倒れ慶應病院で検査した結果、胃がんが発覚。肝臓や腰椎まで転移していた。1週間たたない10月22日胃がんのため死去[2]墓所品川本立寺戒名は「金語楼笑里日敬居士」。

エピソード・その他

芸名の柳家金語楼は元より、自分の顔まで商標登録していた。[
要出典]

前掲の2代目三遊亭金馬一座は、落語家のみの一座というわけでなく、芸を売るというより見世物小屋としての色彩が強かった。その中に凄惨な事件の被害者として知られた芸者妻吉がいた。1905年、中川萬次郎が発狂し愛人芸者6人を日本刀で斬りつけた「堀江六人斬り」で,両腕を切断されながらもただ一人生き残った。金馬に請われて旅回りの芸人となっていた。その後一念発起して口で筆を使い遂には住職となり、名を大石順教と改めた。一座に所属していた妻吉は、その一座での柳家金語楼のデビュー高座を見て、「私、坊やのこと大好きよ」と褒めちぎった。少年にとって何よりの喜びであったろう。

戦前は吉本興業東京吉本)に所属し、横山エンタツ花菱アチャコ柳家三亀松川田義雄と共に吉本の五大スターと称された。因みに、戦前の吉本で最も高給を取っていたのが金語楼である。日中戦争開始後、吉本が戦地慰問のために中国大陸に派遣したわらわし隊にも参加し、敵襲に晒されかねない危険な状況下で、旅順天津北京等を慰問して回った。戦前に吉本が東宝と提携して製作した数多くの喜劇映画でも主演を務めており、現在でもビデオ等で見ることが出来る。こうしたこともあって、現在でも吉本の社内では金語楼の功績は高く評価されており、大阪・難波にある吉本直営の演芸場・なんばグランド花月では、正面入り口に横山エンタツ花菱アチャコあきれたぼういずらと共に、金語楼の大きな肖像画が掲げられていた。

落語家を廃業したのは戦時下のことであり、二足のわらじを当局が許さなかったため、やむを得ず行ったもの。従って、戦後も落語と縁が切れたわけではなく、有崎勉[注釈 2]のペンネームで新作落語を毎月発表。5代目古今亭今輔5代目春風亭柳昇らがこれを演じた。また、自身も無所属ながら機会があるたびに高座に上がっていた。主な作品は、古典の改作物「きゃいのう」・新作では「酒は乱れ飛ぶ」「笑いの先生」「アドバルーン」人情噺風の「ラーメン屋」など数五百あまりの作品がある。SPレコードも多数吹き込んでいる。

発明家としても著名。学童が体育の授業時に被る「赤白帽」などを実用新案登録し、副収入を得た[要出典]。

大阪の横山エンタツ・花菱アチャコが新しい形の漫才を演じると、これに触発され、一門の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。なお、梧楼・緑朗はのちにリーガル千太・万吉と改称。今日の東京漫才の元祖とされた。

父は三遊亭金勝。三遊亭金時(山下市郎)(山下武の著書では本名を「一郎」、三遊亭千馬)、先代昔々亭桃太郎(山下喜久雄)は実弟。また実子は以下の通り。嫡子としてテレビ朝日で『大正テレビ寄席』のディレクターから小説研究・大学講師に転じた、山下武がいる。また愛人(事実上の妻)の子としてロカビリー歌手山下敬二郎女優声優有崎由見子

金語楼は、本妻・愛人を含めて5人の妻がいた。ギャラを受け取ると、それをきっちり5等分にし、5人に分け隔てなく渡したという。ただし、このことは子供たちには知らされていないこともあり、息子の山下敬二郎は、金語楼の葬儀の際にこの事実を知り、驚愕したという。

姪の小桜京子は女優で、駅前シリーズなどの映画に出演した。1964年初代引田天功と結婚し、一人娘の引田有美(声優)をもうけている。(京子は1970年に離婚)。

金語楼の演じていた兵隊落語は、上方落語の噺家である桂三八8代目朝寝坊むらくの影響である。前者の三八は金語楼と共通点が多く、100キログラム以上の禿頭の巨漢で、兵隊出身であり、兵隊落語で人気を博していた。金語楼はこの三八の枕を東京に持ち込みアレンジしていた。後者の朝寝坊むらくは日露戦争に従軍していてその時の体験談を落語に取り入れてた。

過去に金語楼の名を名乗った人物は確認出来ていないが、柳家禽語楼を名乗っていた落語家がいた。そこで金語楼を名乗る際に、遺族と3代目柳家小さんに許可を貰っている。
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