柳宗悦
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1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業[19]。卒業論文は残されていないが、のちに宗悦自身はこの時「心理学は純粋科学たり得るか」という論題に取り組んだと述べている[20]。この時の結論は心理学は純粋科学とはなり得ないというのであり、当時の主流であった実験心理学の流れに逆らうものであった[20]。また、アカデミズムに対する違和感を覚え、のちに妻となる中島兼子に、もう2度とアカデミズムには戻りたくないと述べた手紙を送っている[20]。このような経緯により、独自の学問を形成提起していくこととなった[20]。このころからブレイクの「直観」を重視する思想に影響を受け、これが芸術と宗教に立脚する宗悦独自の思想大系の基礎となった[21]

1914年(大正3年)2月、かねてから交際していた声楽家の中島兼子と結婚[22]。結婚後、しばらく二人は離れて住んだが、同年9月に宗悦の母の弟である嘉納治五郎が、千葉我孫子に別荘と農園を構えていた縁で、同地に転居した[22][23]。やがて我孫子には志賀直哉武者小路実篤白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行った[24]。陶芸家の濱田庄司との交友もこの地ではじまる[25]

前述のロダンから贈られたブロンズ像は、宗悦が自宅で保管していた[26]。1914年、朝鮮の小学校で教鞭をとっていた浅川伯教は、ロダンの彫刻を見に宗悦の家を訪れ、その際、手土産に「李朝染付秋草文面取壺」と呼ばれる陶磁器を持参した[27]。この陶磁器を見て宗悦は形の美の感覚が最も発達した民族は古朝鮮人であると認識するようになり、朝鮮の工芸品に注目するようになる[27][14]1916年(大正5年)以降、たびたび朝鮮半島を赴き、朝鮮の古仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された[21] [25]

1914年12月、同年4月に『白樺』に発表したブレイク論をもとに書き下ろした『ヰ(ウィ)リアム・ブレイク』(洛陽堂)を出版[28]、750頁余りの大著で、宗悦をブレイクの研究に向かわせたリーチに本書を捧げると記されている[29]。当時、ブレイクの本国イギリスにおいても、まだ本格的な研究はされておらず、宗悦が示したブレイクを「無律法主義者」として捉えるという考え方は、本書の出版の40年以上後にようやくイギリスの研究者が指摘するようになった[30]

1919年(大正8年)に東洋大学教授となり[31]1921年(大正10年)からは明治大学予科にも出講した[31]

1923年(大正12年)の関東大震災(兄・悦多を亡くした)を機に京都へ転居した。同志社大学同志社女学校専門学部[32]関西学院の講師となる[31]木喰仏に注目し、1924年から全国の木喰仏調査を行う[14][25]。民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界を紹介するため、1925年(大正14年)から「民藝」の言葉を用い[21]、翌年、陶芸家の富本憲吉濱田庄司河井寛次郎の四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した[33]。『工藝の道』(1928年刊)では「用と美が結ばれるものが工芸である」など工芸美、民藝美について説いた[21][25]

1931年(昭和6年)には、雑誌『工藝』を創刊、民藝運動の機関紙として共鳴者を増やした。1934年(昭和9年)、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会が設立される。1936年(昭和11年)に、実業家大原孫三郎の支援により、宗悦が初代館長となり東京駒場に日本民藝館を創設した[21]。また沖縄台湾などの南西諸島の文化保護を訴えた[14]
戦後・晩年

1952年(昭和27年)5月から、毎日新聞社の後援を得て国際工芸家会議に列席のため志賀直哉、濱田庄司、梅原龍三郎らとヨーロッパ・北米の周遊旅行を行った(志賀と梅原は体調不良などで8月に切り上げ帰国)、翌53年(昭和28年)2月に再会したバーナード・リーチ(18年ぶりに来日)を伴い帰国した[34]。1954年から翌55年に一般向けに「選集」全10巻が刊行し広く認知されたが、1956年暮れからリウマチ心臓発作との闘病を余儀なくされつつも民藝運動の進展に向け執筆活動を続けた。

1957年(昭和32年)11月に「民藝理論の確立・日本民藝館の設立・民藝運動の実践の業績」により、文化功労者[35]に顕彰された。1960年に朝日文化賞を授賞。

1961年(昭和36年)4月29日、日本民藝館で昼食・談話時に脳出血で倒れ、昏睡が続いたが、5月3日午前4時2分に逝去した[36][注 3]享年72歳。5月7日、日本民藝館で葬儀を行った。
家族

1914年大正3年)、中島兼子と結婚、兼子は近代日本を代表するアルト声楽家だった。インダストリアルデザイナー柳宗理は長男、美術史家柳宗玄は二男、園芸家の柳宗民は三男。甥(兄・悦多(よしさわ)の子)に染織家の柳悦孝、柳悦博。他に美術史家の石丸重治、法学者の今村成和がいる。
朝鮮との関わり

1916年(大正5年)、朝鮮を訪問した際に朝鮮文化に魅了された柳は、1919年(大正8年)3月1日朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した[注 4]。当時ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。1920年6月『改造』に「朝鮮の友に贈る書」を発表、総督政治の不正を詫びた。

1924年(大正13年)4月、京城(現ソウル)の景福宮緝敬堂に「朝鮮民族美術館[21]を設立した[38]。李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器を常設展示、それらの美の評価を促した。

朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため李氏朝鮮時代の旧王宮である景福宮光化門が取り壊されそうになると、これに反対抗議する評論『失はれんとする一朝鮮建築のために』を、朝鮮の新聞『東亜日報』に寄稿した(なお、検閲によって削除された内容は、後日日本の雑誌『改造』に掲載された)[39]


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