柳さく子
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生活の糧を求めた千代子は、地元浅草で映画俳優の斡旋をしていた山田という女性の紹介で、国活映画の『涙の親子』にエキストラとして出演する[6]。さらに1922年1月、山田の夫が勤めていた松竹蒲田撮影所大部屋女優として入社し、本格的に映画女優の道へと踏み出すことになった[1][6]
映画女優(松竹蒲田)

入社早々、池田義臣(のち義信)監督に見出され、同監督の『不如帰』(1922年3月公開)で、主演の栗島すみ子演じる浪子の恋敵・豊子の大役に抜擢される[1][6]。芸名も「市川左久江」から「柳さく子」となり、映画女優として幸運なスタートを切る[1][6]

当時栗島・川田芳子五月信子の3人がトップ女優として君臨し、さく子はこの3人に次ぐ若手女優として、梅村蓉子英百合子・東栄子とともに期待された[1]。以後は栗島主演の『母の心』、『祇園夜話』、『想夫憐』(1922年)、『船頭小唄』、『死に行く妻』(1923年)、川田主演の『夫として妻として』、『清水次郎長』(1922年)、五月主演の『剃刀』(1923年)などの作品に助演[1]

さく子は、非常に小柄(身長140cm台前半)で愛らしい顔立ちの持ち主ながら、どこか芯の強さを感じさせるキャラクターと、舞台で鍛えた堅実な演技力で頭角をあらわし、1歳下の梅村とともに、次第にトップ3に迫る人気を集めるようになる[7]

1923年4月、野村芳亭監督(当時蒲田撮影所所長も兼務していた)の『なすな恋』で栗島すみ子と共演。栗島とともに清元「保名」を踊り、特技の日本舞踊の腕前を披露する[7]。同年7月の野村監督『女と海賊』では、川田芳子とともに主演の勝見庸太郎の相手役をつとめる。伊藤大輔が脚本を手がけ、剣戟映画の草分けとして知られる同作品はヒットし、さく子は一躍大スターの地位に上り詰めた[7]

それから間もなくして起こった関東大震災により、蒲田撮影所は京都の下加茂に一時移転する[1][8]。この頃から主演級に抜擢され、『山中小唄』、『南の漁村』などの作品でヒロインをつとめる[1]。翌1924年1月に撮影所が蒲田に戻ると、恒例の昇格式で梅村蓉子とともに幹部に昇格する[1]映画『山男の恋』(1924年)スチール写真から。左・藤野秀夫、右・柳さく子

名実ともにスター女優となったさく子は、『はたちの頃・第一話』、『感じの好い映画集 《猫》』、『踊りの夜』などに主演した後、菊池寛原作で新派の当たり狂言であった『大尉の娘』(野村芳亭監督)で藤野秀夫とコンビで主演する[1]。また、この頃から撮影所内外で、野村との親密な関係が噂される様になる[1][9][注 2]
映画女優(松竹下加茂 - 松竹蒲田)

1924年9月、野村が下加茂撮影所(当時蒲田の現代劇に対し、時代劇を製作していた)の所長に異動すると[注 3]、さく子も河村黎吉・志賀靖郎・小川国松・双葉くみ子などの俳優、大久保忠素清水宏などの監督とともに行動を共にする[1][9]

下加茂では看板女優として、いずれも野村監督の『元禄女』、『雷お新』、『城木屋お駒』、『三日月お六』前後編、『お伝地獄』前中後編、『復活』(トルストイの同名作品の翻案)や、清水監督の『恋より舞台』などに主演し[1]、特に『お伝地獄』の演技は高い評価を受けた[15]。だが興行面では全体的に伸び悩み、結果として撮影所は1925年6月に一時閉鎖となる(翌年再開)[1][9]。スタッフ・俳優は全員蒲田に引き上げることとなった[1][9]映画『妖婦五人女』(1926年)宣伝用写真から。左から、栗島すみ子松井千枝子川田芳子筑波雪子、柳さく子

蒲田に戻ったさく子は、女優活動を一時休業していたが[16]、1925年10月に重宗務監督の時代劇『村正小町』で復帰[1][16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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