柳さく子
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『伴淳・アチャコのおやじ教育』 : 監督酒井欣也、1959年9月20日公開 - 千鳥亭の婆や ※柳咲子名義[23]
『お夏捕物帖 月夜に消えた女』 : 監督萩原遼、1959年11月13日公開 - 婆やおとく ※柳咲子名義[24]
『女の坂』 : 監督吉村公三郎、1960年6月17日公開 ※クレジット無し[25]
著書
春夏秋冬に配した着物の着附と帯の結び方(芳蘭閣書店、1929年)
脚注
注釈^ デビュー当初は、「柳咲子」と漢字表記の印刷物が多かったが、しばらくすると「柳さく子」と平仮名を交えたものが多くなり、松竹の社史でも「柳さく子」の名前で統一されている[1](但し上記の経緯から、後年の映画資料でも漢字表記のものは少なくない)
^ 小柄なさく子と、肥大漢の野村との取り合わせは、あたかも大木に蝉が止まっているが如きと形容され、「木蝉(ボクセミ)事件」とも呼ばれた[10]。この件に関連して、当時のスター俳優3人(勝見庸太郎・諸口十九・岩田祐吉)による、野村の弾劾事件も起こっている[11]。なお野村自身は、さく子との親密な関係を否定しているが[12]、野村の後任の蒲田撮影所所長・城戸四郎は、「現場を押さえていない以上、断定的なことは言えぬが、野村が柳にかなり入れあげていたという事実は否定し難い」という趣旨の証言を残している[13]
^ この異動に関しては、左遷説(妻子ある野村とさく子のスキャンダルに対する懲罰措置)[10][12]と、配置替え説(時代劇部門の強化を目的としたもの)[14]の2説がある
出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 『日本映画俳優全集・女優編』、708頁
^ a b c 『映画界ローマンス』、165 - 166頁
^ a b c 『映画界ローマンス』、166 - 167頁
^ 『映画界ローマンス』、168 - 169頁
^ 『映画界ローマンス』、174頁
^ a b c d 『映画界ローマンス』、174 - 176頁
^ a b c 『映画界ローマンス』、176 - 177頁
^ 『映画界ローマンス』、177 - 178頁
^ a b c d 『映画界ローマンス』、178 - 179頁
^ a b 『人物 日本映画史』、142 - 143頁
^ 『日本映画を創った男: 城戸四郎伝』、40頁
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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