以上のように、柳さく子は時代劇で長期に渡って主演をつとめて来たが、これは男優の主演が相場となっている時代劇においては非常に稀有なケースと言える[1]。当時の映画ジャーナリズムでも、さく子を阪東妻三郎と並ぶ集客力のある時代劇スターとして評価する意見もあり、全盛期の人気のほどを伺うことができる[17]。1929年には、舞踊の名手であった彼女の記録映画『柳さく子十八番舞踊集』が製作されているが、これも映画女優としては異例のことであった[1]。
同じ1929年、松竹に新しく大幹部制が敷かれると、さく子は井上正夫、岩田祐吉、藤野秀夫、川田芳子、栗島すみ子とともに、大幹部に推された[18]。 1931年、松竹下加茂撮影所に移籍[1]。以後は男性スターの相手役が増え、同年の犬塚稔監督『十六夜清心』では林長二郎の清心に対し十六夜、続く尾上栄五郎
映画女優(松竹下加茂)
翌1933年には市川右太衛門プロダクションに招かれ、『いざよひ帳』で右太衛門の相手役小菊を演じるが、この頃から新人飯塚敏子の台頭などもあり、脇に回る機会が多くなる[1]。衣笠貞之助監督『忠臣蔵』前後編(1932年)では戸田局(川崎弘子が演じた瑤泉院の侍女)を演じ、『鈴木新内』(1935年)では飯塚、『鳥辺心中 お染半九郎』(1936年)では長二郎のそれぞれ母親役を演じた[1]。以後は『新版六花撰』(1936年)などの主演作はあるものの、中年役・老け役が中心となり、長二郎主演『番町皿屋敷』(1937年)、坂東好太郎主演『流転』前後編(1937年)、『尊王祇園会』(1938年)、『美女桜』前後編(1940年)、高田浩吉主演『初姿お神楽半次』(1938年)、『月夜鴉』、『股旅八景 三ツ角段平』(1939年)、川浪良太郎主演『夢の市郎兵衛』(1939年)などに出演した[1]。
1942年、太平洋戦争の激化による製作数減少のため松竹を退社。以後は、川浪良太郎・伏見信子・深水藤子らとともに、「新大衆劇団」を結成し、各地で巡演を行った[19][20]。
戦後 - 晩年(慈善病院)に入院していた1956年、彼女の窮状を知った地元京都の映画人有志によって「救済世話人会」が結成され、彼らの尽力により、さく子は余生を養老院で過ごす事になった[21]。身寄りもなく病気がちの彼女は、晩年生活保護を受ける境遇であったと言われるが[19]、一方で下加茂撮影所のOB会「下賀茂会」に招かれて昔の映画仲間と旧交を温めたり[22]、古巣松竹の作品に脇役・エキストラとして顔を見せることもあった[23][24][25](人物・エピソード欄も参照)。
1963年3月20日、肺水腫で死去[19]。享年60(満年齢)。天涯孤独のさく子は、無縁仏となるところを、偶然その死を伝え聞いた下加茂時代の俳優仲間・武井龍三の斡旋により、武井の菩提寺で京都・鷹ヶ峰にある吟松寺に葬られた[19]。戒名は「映月妙香禅定尼」[19]。翌1964年11月に武井も亡くなり、2人の墓は背中合わせに立っている[19]。 没後9年経った1972年9月、活動弁士で映画サークル「無声映画鑑賞会」会長・松田春翠(マツダ映画社創業者)らが発起人となり、墓標の代わりとして「柳咲子地蔵尊」が建立された[19][26]。
没後