柳さく子
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『親恋道中』 : 監督広瀬正明、1939年4月1日公開 ※現存(NFC所蔵[31]

『股旅八景 三ツ角段平』 : 監督古野栄作、1939年4月20日公開 - おつぎ

銭形平次捕物控第二話 名月神田祭』 : 監督笠井輝二、1939年5月4日公開 - 踊の師匠

『いざよひ峠』 : 監督星哲六、1939年5月25日公開

『千両判官』 : 監督広瀬正明、1939年7月27日公開

『夢の市郎兵衛』 : 監督星哲六、1939年9月7日公開

『与三郎吹雪』 : 監督笠井輝二、1940年2月1日公開

『美女桜 暴風篇』 : 監督大曾根辰夫、1940年2月29日公開 - おとわ ※35mmオリジナルのみ現存(マツダ映画社所蔵[32]

『美女桜 黎明篇』 : 監督大曾根辰夫、1940年3月7日公開 - おとわ ※35mmオリジナルのみ現存(マツダ映画社所蔵[32]

『仇討恋人形』 : 監督冬島泰三、1940年3月14日公開 - おたつ

『維新子守唄』 : 監督星哲六、1940年4月19日公開 ※現存(NFC所蔵[31]

『縁結び高田馬場』 : 監督小坂哲人、1940年8月8日公開 ※現存(NFC所蔵[31]

『両国の三人娘』 : 監督星哲六、1940年8月29日公開

『権三と助十』 : 監督古野栄作、1940年11月16日公開 - お兼

『弥次喜多捕物道中』 : 監督大曾根辰夫、1941年1月14日公開

市川右太衛門プロダクション

『いざよい帖 流転の巻』 : 監督
白井戦太郎、サイレント映画、1933年1月26日公開 - 芸妓小菊

『いざよい帖 興亡の巻』 : 監督白井戦太郎、サイレント映画、1933年2月22日公開 - 芸妓小菊

中仙道を行く退屈男』 : 監督古野英治、サイレント映画、1935年1月7日公開 - お楽

中仙道を行く退屈男 後篇十万石を裁く退屈男』 : 監督古野英治、サイレント映画、1935年2月8日公開 - お楽

第一映画

『裏町の乾杯』 : 監督
鈴木重吉、1935年5月22日公開

松竹太秦撮影所

『文七元結』 : 監督井上金太郎、
サウンド版、1936年5月14日公開

『千両長脇差』 : 監督秋山耕作、1936年11月13日公開

新興キネマ京都撮影所

『怪談鴛鴦帳』 : 監督
木藤茂、1938年3月30日公開 - お徳 ※現存(NFC所蔵[33]

松竹京都撮影所

『伴淳・アチャコのおやじ教育』 : 監督
酒井欣也、1959年9月20日公開 - 千鳥亭の婆や ※柳咲子名義[23]

『お夏捕物帖 月夜に消えた女』 : 監督萩原遼、1959年11月13日公開 - 婆やおとく ※柳咲子名義[24]

『女の坂』 : 監督吉村公三郎、1960年6月17日公開 ※クレジット無し[25]

著書

春夏秋冬に配した着物の着附と帯の結び方
(芳蘭閣書店、1929年)

脚注
注釈^ デビュー当初は、「柳咲子」と漢字表記の印刷物が多かったが、しばらくすると「柳さく子」と平仮名を交えたものが多くなり、松竹の社史でも「柳さく子」の名前で統一されている[1](但し上記の経緯から、後年の映画資料でも漢字表記のものは少なくない)
^ 小柄なさく子と、肥大漢の野村との取り合わせは、あたかも大木に蝉が止まっているが如きと形容され、「木蝉(ボクセミ)事件」とも呼ばれた[10]。この件に関連して、当時のスター俳優3人(勝見庸太郎・諸口十九・岩田祐吉)による、野村の弾劾事件も起こっている[11]。なお野村自身は、さく子との親密な関係を否定しているが[12]、野村の後任の蒲田撮影所所長・城戸四郎は、「現場を押さえていない以上、断定的なことは言えぬが、野村が柳にかなり入れあげていたという事実は否定し難い」という趣旨の証言を残している[13]
^ この異動に関しては、左遷説(妻子ある野村とさく子のスキャンダルに対する懲罰措置)[10][12]と、配置替え説(時代劇部門の強化を目的としたもの)[14]の2説がある

出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 『日本映画俳優全集・女優編』、708頁

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