柔道
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日本の学校教育においては、1911年(明治44年)7月の中学校令施行規則改正時に、体操科の内容として従来の教練及び体操の他に「撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」(13条)とされ[12]旧制中学校の正科として柔道が剣道とともに採用された[13]。経緯については「講道館#体育としての柔道(体育法)および「#体育としての柔道(体育法)」を参照

太平洋戦争後、占領軍 (GHQ) により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、1950年(昭和25年)に文部省新制中学校の選択科目に柔道が採用された。次いで1953年(昭和28年)の学習指導要領で、柔道、剣道相撲が「格技」という名称で正課の授業とされた[要出典]。1989年平成元年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。2012年(平成24年)4月から中学校体育で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)[14][15]
学校体育と柔道

日本では部活動としてほとんどの中学校高等学校、多くの大学に「柔道部」があり、中学校高等学校では学習指導要領に沿った形で生徒の自主的、自発的な参加による課外活動の一環としての部活動が行われている。警察や社会体育中心にやってきた日本の柔道だが20世紀終盤までに男子柔道の主力選手はこの学校体育大学柔道の学生およびそのOBの柔道家が中心となっており、日本以外への普及活動、柔道競技の近代化も大学柔道の柔道家が中心になって行っていたと彼らは自負していた。中学校、高等学校の運動部の監督は教員がやることが多く、教員はほとんど大学を卒業しているので、中学校、高等学校の柔道界も大学柔道界の貢献が多くなっている。彼らは社会体育勢が中心の全柔連のやり方に不満を持つようになった。20世紀終盤に起きた講道館・全柔連対全日本学生柔道連盟(学柔連)の内紛もこういった日本の大学柔道界にたまった不満も背景にあった[16]
社会体育としての柔道

日本ではほとんどのスポーツは学校体育中心だが、こと武道、武術、格闘技に至っては多くが町道場やジムでの社会体育を中心として行われている。柔道も講道館という社会体育として始まった。その後、民間などの道場での活動のほかに、警察署の道場で一般向けの教室が行われるようになり社会体育の柔道は拡大した。1980年代でも全柔連の主なメンバーは骨接ぎや社会体育である町道場を商売にしている人が多い、と首都圏で町道場を営み日本柔道界の内情に詳しい小野哲也は述べている。1986年、ある議員から、全柔連は全日本学生柔道連盟(学柔連)の大卒メンバーと異なり、知性・教養がない者ばかり、と言われたことがあるとも小野は述べている[16]神取忍は町道場は学校体育の柔道と比べ厳しい体罰を受けることはない、と述べている[17]。フランスや北欧などは日本のように学校管理下、教員顧問による指導の部活動自体がほとんどなく、地域のスポーツクラブに任意で加入して、そこで柔道の指導、練習を受ける社会体育の柔道がメインである。
企業体育としての柔道

日本では企業実業団活動が行われている。柔道がオリンピック競技となってから、企業は実業団による選手育成に力を入れ、のちに警察柔道を凌ぐ勢力となっている。1980年代、大学柔道の学柔連のメンバーは大学の柔道部OBがメインで実業団柔道に対しても影響力があった。講道館・全柔連対学柔連の内紛では、1983年に全日本実業柔道連盟(実柔連)会長の永野重雄は全柔連を脱退した学柔連に共鳴し、副会長の青木直行が受け流したため実現しなかったが、青木に全柔連から脱退するよう命じた、と小野哲也は語った[18]
ステートアマチュアとしての柔道

日本では警視庁、道府県警察のほか、皇宮警察自衛隊筑波大学中央競馬会などを所属とするステート・アマの柔道家も多い。
国際的競技としての普及国際的競技としての柔道においても礼節は重んじられている。「オリンピック柔道競技」および「世界柔道選手権大会」も参照

柔道の試合競技は、オリンピックでは1964年東京オリンピックで正式競技となる。東京オリンピックでは、無差別級でオランダアントン・ヘーシンクが日本の神永昭夫を破って金メダルを獲得し、柔道の国際的普及を促す出来事となった。女子種目も1988年ソウルオリンピックで公開競技、1992年バルセロナオリンピックでは正式種目に採用された。世界選手権は1956年に第1回大会が開催され、女子の大会は1980年に初開催された。日本の女子は明治26年以来長年試合が禁止され、昇段も「形」が中心であった。1979年夏に日本女子の一線級と西ドイツのジュニア選手が講道館で対戦したが、日本は一勝三敗で二人が負傷し、ドイツ選手との腕力の差は日本の柔道関係者に衝撃を与えた[19]。のちに世界中に普及し、国際柔道連盟の加盟国・地域は201カ国に達している(2012年4月現在)。日本以外では、韓国欧州ロシアキューバブラジルで人気が高く、特にフランスの登録競技人口はフランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟(フランス柔道連盟)の組織構成の関係上、国際柔術連盟柔術の競技人口も含んでいるが50万人を突破し、全日本柔道連盟(全柔連)への登録競技人口20万人を大きく上回っている(ただし、幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なるため、この数字を単純に比較することはできない)。また、この登録人口そのものに関しても一般に想起されるいわゆる柔道人口とは異なる。これは、柔道の役員、審判員、指導者、選手として公的な活動に参加するために行われる制度で全柔連の財政的基盤でもある。日本国内では、学校体育の授業として経験した人、学生時代に選手まで経験したが、のちにまったく柔道着を着ることもないどころか試合観戦程度という人、子供と一緒に道場で汗を流しているが、段がほしいわけでも試合をするわけでもない人など、未組織の人たちがたくさんいるようになった。講道館でも、地方在住者は初段になった段階で入門するのが通例であり、門人、有段者ではあるが、毎年、登録しているとは限らない。したがって柔道人口、登録人口、競技人口、講道館入門者数は意味合いが違う。
技術体系

講道館柔道の技は投技固技当身技の3種類に分類される。投技は天神真楊流起倒流の乱捕技をもとにしている。固技や絞技は天神真楊流の技に由来していて、当身技は攻撃することによって受の急所に痛みを負わせたりするのに適した護身術である、とされる[20]。投技の過程を崩し、作り、掛け、の三段階に分けて概念化したことが特徴である。またこれと平行して、口語的には、立技と寝技に分類して使用されるが、寝技は審判規定において使われる寝姿勢における攻防を指しているので、固技と同義ではない。絞技関節技は立ち姿勢でも施すことが可能であるからである。練習形態は乱取があり、形と乱取は車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取による稽古を重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取・試合では「投技」「固技」のみとした。そしてスポーツとしての柔道は安全性を獲得し、広く普及していくこととなった。試合で用いることができるのは、投技と固技であり、講道館では100本としている[21]。しかし、試合で使用できる技は92本である。(当身技は形として練習される。)競技としては投技を重視する傾向が強く、寝技が軽視されてきたきらいがある。しかし、寝技を重視した上位選手や指導者らによって寝技への取り組みは強化されるようになった。また国際柔道連盟規定(国際規定)の改正によって抑込技のスコア取得時間が短縮し決着の早期化が計られ、寝技の攻防における「待て」が遅くなったことと、主に外国選手による捨身技や返し技と一体化した寝技の技法の普及によって、寝技の重要性は一層増している。
投技詳細は「投技」を参照

投技とは「理合い」にしたがって相手を仰向けに投げる技術である。立って投げる立ち技と体を捨てて投げる捨身技にわけられる。立ち技は主に使用する部位によって手技腰技足技に分かれる。捨身技は倒れ方によって真捨身技横捨身技に分かれる。また柔道の投げ技は、(1) 試合や自由練習(乱取)で用いられる投げ技、(2) 関節技を利用した投げ技、(3) 当て身技を施しながらの投げ技の3つがあるが、試合や練習では(1)が使われ、(2) や (3) の方法は「」によって学ぶことになっている[22]


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