古武道の柔術から発展した武道で、投技、固技、当身技を主体とした技法を持つ。明治時代に警察や学校に普及し、第二次大戦後には国際競技連盟の国際柔道連盟の設立やオリンピック競技に採用されるなど、世界的に普及している。
スポーツ競技・格闘技でもあるが、講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、武術の修得・修練と、身体・精神の鍛錬と、教育と、社会生活への応用・日常生活への応用[2]を目的としている[注釈 1]。
IJFでは2015年8月アスタナの総会で採択された規約前文において、「柔道は1882年、嘉納治五郎によって創始されたものである」と謳っている[3]。
歴史
柔術から柔道成立まで「柔術#歴史」も参照
柔道の歴史保恒年から嘉納治五郎に授与された「日本伝起倒柔道」の免状(明治16年)。柔道という用語は嘉納が学んだ起倒流ですでに使われていた。
古くから、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。
1877年(明治10年) に、嘉納治五郎は天神真楊流の福田八之助に入門し、当身技を中心に関節技、絞技、投技を含んだ捕手術を由来とする立合や居捕の体系を持ち、乱捕技としての投げ技、固技も持つ天神真楊流を稽古した。また、組討を基とし捨身技を中心とした体系と乱捕を伝えていた起倒流柔術を稽古した。
天神真楊流と起倒流柔道の乱捕技や形の技法を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年(1882年)、東京府下谷にある永昌寺という寺の書院12畳を道場代わりとして「講道館」を創設した。もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例[4]などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。
講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる[5]。柔道がまとめて採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる[6]。
その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は武道(日本武道、日本九大武道〈日本武道協議会加盟九団体〉)の筆頭として名を連ねている。
第二次大戦後、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までにドイツにおいて結成されていたヨーロッパ柔道連盟が[7][8][9]、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど日本国内外の働きかけもあり、日本においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。
警察と柔道明治21年ごろの警視庁武術世話掛。最前列の左から2人目は後に講道館史上初の柔道十段となる山下義韶。
嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(1928年)『作興』に連載)によれば、明治21年(1888年)ごろ、警視庁武術大会で主に楊心流戸塚派と試合し2 - 3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は天神真楊流などの他流柔術出身の実力者であった。
この試合のあと、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として柔術世話掛を採用したため、全国に広まっていったという[注釈 2]。