枯山水
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また、慈照寺の向月台のような盛砂にはより細粒な砂を用いる[27]

敷砂には箒目と呼ばれる文様をつける事も多い。箒目はのほか、熊手レーキなどの器具を用いてつけられる。代表的な箒目には以下のものがある[28]

漣(さざなみ) - 平穏な水面を象徴する文様で、線の大小によって水面の大きさを表現する。

うねり - 平穏な水面を表現するが漣と比べてやや躍動的。

片男波(かたおなみ) - 円弧を連続したもので、うねりの便化といえる。

網代波(あじろなみ) - 折れ線を連続したもので、片男波をさらに便化したもの。

青海波(せいがいは)- 片男波の変形で、力強さと温柔さを兼ね備える。

観世水(かんぜみず) - 漣と渦紋を組み合わせたもので、流水における変化を表現する。

渦紋(うずもん) - 水面の変化を表現する文様。

渦巻紋(うずまきもん) - 渦紋の便化といえる。

獅子紋(ししもん) - 旋紋ともいう。渦紋の変形といえる。


日本の庭園は歴史的に石に対する関心が極めて強いとされる[29]。枯山水で用いる石の多くは自然石で[30]、山岳や渓谷などの自然、宝船・鶴・亀などの縁起物などを抽象的に表現する[31]。以下に石組の例を記すが、日本庭園に共通のものもある。

三尊石組 - 大きな中心石の両脇に小さな脇侍石を2つ組み合わせた石組。名称は仏像の三尊像に因むが、明確に仏を象徴するものではなく、安定した石組表現とされる。圓徳院など[32]

七五三石組 - 奇数の石組はバランスの良さや、祝儀の数とされたことから重用された。龍安寺庭園・大徳寺真珠庵庭園・妙心寺東海庵庭園など[33]

蓬莱石組 - 道教の伝説の霊山を表現した石組。近寄りがたさを表現する鋭い形の石を立てて、周囲に石を配して蓬莱島を見立てる。東福寺方丈庭園など[34]

須弥山石組 - 仏教において世界の中心にある山。中心に独立峰を示す石をたて、その周りに8つの石を配しそれを囲む海を表現する。萬福寺庭園など[35]

舟石 - 理想郷に向かう舟を表現する石。大仙院庭園・蓮華寺庭園など[36]

枯滝石組 - 深山幽谷の表現や登竜門伝説になぞらえたものなど。西芳寺庭園・大仙院庭園・酬恩庵など[37]

橋石組 - 山奥の表現を出すために滝の手前に設置される。また三橋(3本連なる橋)も多い。大仙院など[38]

遠山石 - 遠景を表すために据える石。築山や滝組石の上に据えられる事が多く、主石の背景として配置される。萬福寺庭園など[39]

亀島 - 蓬莱信仰と不老不死の象徴を表現。甲羅の亀甲石の両脇に亀脚石を配し、前後に亀頭石と亀尾石が伸びる。背に須弥山を載せることを象徴して石を載せたりビャクシンを植えることがある。金地院庭園・芬陀院庭園など[40]

鶴島 - 神仙島を表現する。長い石を寝かせて鶴首石とし、羽石を配する。背には松を植えることもある。金地院庭園・西本願寺庭園・大仙院庭園・芬陀院庭園など[41]


三尊石組(圓徳院) 中央上部

七五三石組のうち五石(龍安寺)

蓬莱石組(東福寺)

舟石(大仙院)

石橋とその奥の枯滝石組(本法寺)

鶴島(左)と亀島(右)(芬陀院)

歴史

本節では、枯山水の語彙の変化と、室町時代の枯山水様式が完成するまでの変遷、および室町時代以降の枯山水の特徴について纏める。ただし作庭時期の比定や作庭者の推定などには諸説あり、自ずと枯山水の成立の経緯についても論者によって千差万別である。
平安時代以前

枯山水の最古の史料『作庭記』には以下のように記されている。池もなく遣水もなき所に石をたつる事あり、これを枯山水となつく。枯山水の様は片山のきし、或いは野筋などをつくりいてて、それにつきて石をたつるなり。(後略) ? 『作庭記』、橘俊綱[3]

水の無い場所に築山や野道をつくり、これに石組をすることを指して枯山水としており、現在イメージされる枯山水とは違うもので、庭園様式というよりは庭園手法に近いとされる[6]。こうした枯山水の姿は、毛越寺浄土庭園の池の南西部にある築山が代表とされており[3][6]、その他には園城寺の閼伽井石庭、大沢池庭園の名古曽滝跡付近の石組などが指摘されるほか、『北野天神縁起絵巻』などの絵画資料などから推測されている[6]

このような石組の庭園手法の成り立ちについて、日本固有のものとする説や中国・朝鮮半島からの伝来とする説もあり定説には至っておらず、いつ頃成立したのかも定かではない[42]。古くは神道の磐座との関連を指摘する説があり、三玲は阿智神社の石組に枯山水的なものを見出せるとする[43]。また、外村中は「枯山水が、石を用いてつくられた築山の一形態を指すのであれば、平城宮東院庭園に類例が見られる」として8世紀の奈良時代まで遡る可能性を指摘し[44]、さらに朝鮮半島の4,5世紀の庭園遺構にも共通点が見出だせるとしている[45]

毛越寺浄土庭園 池の南西部にある築山

平城宮東院庭園 池北側の築山

北野天神縁起絵巻 寝殿と前庭

鎌倉時代

鎌倉時代前期に中国に渡った栄西道元により禅宗がもたらされる。しかし庭園史においてその影響はやや遅れており、禅寺の庭園の変化は13世紀の蘭渓道隆の来日を待つこととなる[46]。1253年に創建された建長寺庭園は蘭渓の手によるものとされるが、度重なる火災で創建当時の面影は枯滝石組のみとされる。同じく蘭渓による作庭と考えられるのが東光寺庭園である。本堂からみて池の向こうの山麓を築山として利用し、枯滝石組と蓬?山石組を配置する[47]。その姿は従前の大和絵的な典雅なものではなく、山水画的な構成がみられるとされている[48]南禅院庭園には池の上流に相当する場所に枯滝石組があり、枯山水的要素が窺える[48]。ただし、この頃の中国(南宋)の禅宗庭園遺構はほとんど残っていないため、どの程度の影響があったかは明確ではない[47]

建長寺庭園

東光寺庭園

南禅院庭園

室町時代

夢窓疎石は鎌倉時代から室町時代にかけての禅宗庭園を語るうえで欠かせない人物である。1339年に夢想は西芳寺に招かれてこれを再興し、元々あった西芳寺の浄土庭園と、その上部にあった穢土寺の庭園を禅宗庭園に改めた。この上部庭園が室町時代以降の枯山水の源流とされている[49][50]。『夢窓国師年譜』などによると、夢窓は中国禅宗の公案を題材として庭園に表現していたとされる[49][注釈 2]


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