枢軸国
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しかしチャーノが帰国すると、ムッソリーニは次のような声明を出した。チアノ外相のベルリン訪問によって、多くの問題について独伊両国間に諒解が成立したが、そのうちの若干は現下の国際情勢において特に重要なものである。このドイツとイタリヤを結ぶ絆、ローマ=ベルリン線は他国を隔てる隔壁ではない。協調と平和の意志を持つすべてのヨーロッパ諸国が、その周りを回ることができる枢軸である。 ? 児島襄訳、第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 文春文庫刊 1巻 P497

この後、「ローマ・ベルリン枢軸」という言葉は両国の関係を表す言葉として世界に浸透した。この発言をヒトラーは、実態のない合意を大げさに見せるムッソリーニのパフォーマンスと見ていた。翌1937年9月にはムッソリーニの訪独が行われ、両国の協調関係が強まるにつれ、枢軸の語は広く使われるようになった。

1938年3月のオーストリアの併合後、5月にヒトラーはイタリアを訪問した。すでにドイツの優勢は明らかであり、各国新聞の呼称も「ベルリン・ローマ枢軸」と改められた。1939年5月22日には条約が結ばれ、両国の協力関係は軍事同盟に発展した。この条約は通称『鋼鉄協約』と呼ばれる。
日本について

日本は1936年(昭和11年)11月に国際政治上の実体的効果はともかくとして日独防共協定を結び、さらに1937年(昭和12年)11月の日独伊防共協定の成立によって、日独伊3国の関係についてローマ・ベルリン・東京枢軸という言葉が生まれたとされる。防共協定成立当初は、との外交関係への配慮から防共が強調されていたようだが、満洲国問題、国際連盟からの脱退と国際社会で孤立を深めていた日本にとって独伊両国は数少ない友好国であった。また、国際政治上は現状維持を指向する英・仏に対し"持たざる国"として武力による領土拡大を目指す傾向に加え、さらに国内政治上は大正デモクラシーの時代が終わり、反民主主義・反自由主義的傾向を強めつつある日本は独伊と体制的にも近い国と、互いにあるいは国際的にもみなされるようになった。1937年(昭和12年)の日独伊防共協定の成立時、東京市内でそれを祝う提灯行列が起きたとされる[4]が、1938年12月にはラジオ番組中の「大建設の歌」〈柴野為亥知作詞〉の中で「防共は東西一に枢軸は今や厳たり」と唄われ[5]、その意識は相当程度広められていたと考えられる。これは、多少の紆余曲折はあったものの1940年9月の日独伊三国軍事同盟に至る。その後、第二次世界大戦中において日独側にたった交戦国は枢軸国とよばれた。
第二次世界大戦.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}戦争当時の枢軸国の各国指導者 アドルフ・ヒトラー 東條英機 ベニート・ムッソリーニ イオン・アントネスク ホルティ・ミクローシュ ボグダン・フィロフ リスト・リュティ プレーク・ピブーンソンクラーム

第二次世界大戦における枢軸国は連合国と交戦した国々であるが、枢軸国全体で統合された戦争指導は最後まで行われなかった。このためドイツの対ソ開戦日本の対米開戦は事前に通知(宣戦布告)されておらず、交戦相手も統一されていないなど、枢軸国の足並みが揃うことは無かった。
1939年

1939年に勃発したポーランド侵攻に参加した枢軸国はドイツとその影響下で独立したスロバキア共和国のみであった。
1940年

1940年に行われたドイツによるフランス侵攻が成功すると、イタリアと、前年にイタリアの侵攻を受けて同君連合を形成していたアルバニア王国も枢軸国に加わり、連合国に宣戦布告した。8月16日に行われた第二次ウィーン裁定によって、ドイツはルーマニア王国への駐屯権を獲得し、ルーマニアを枢軸国の影響下においた。

9月には日独伊三国条約(以降、『枢軸条約』と表記)が結ばれた。ただし、この時点ではこの条約に加入することは枢軸国として参戦することと同じではなかった。11月にはハンガリー王国、ルーマニア、スロバキアが『枢軸条約』に加入した。


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