枢密院_(イギリス)
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イギリス行政機関枢密院
Privy Council

即位の日に枢密院会議を招集したヴィクトリア女王1837年
役職
枢密院議長ペニー・モーダント
書記官長リチャード・ティルブルック
組織
内部局枢密院事務局
概要
ウェブサイト
privycouncil.independent.gov.uk
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枢密院(すうみついん、: PC: Privy Council)は、イギリス国王諮問機関国王大権の行使に関する助言を行う。正式名称は「国王陛下の最も高潔なる枢密院」(こくおうへいかのもっともこうけつなるすうみついん、英: His Majesty's Most Honourable Privy Council)。
歴史

枢密院の沿革は中世の国王の諮問会議キュリア・レジスまで遡ることができる[1]

14世紀末、リチャード2世が未成年だった頃に摂政団・政治顧問団として重要な役割を果たすようになり、15世紀初め頃から「Privy Council」(私的評議会、枢密院)と呼ばれるようになった[2]

15世紀前半のヘンリー6世の未成年期に機能が強化されて、国政の重要機関となった[2]バラ戦争の間は衰退したものの、テューダー朝がはじまると再び重要機関となり、直属の国王大権裁判所である星室庁裁判所などを通じて司法にも影響力を及ぼすようになった[2]。枢密院は徐々に整備されていき、エリザベス1世時代には統治の中心機関になっていた[3]

ステュアート朝期には清教徒革命が発生し、共和政への移行により一時廃止され国務会議に取って代わられたが、1660年王政復古とともに復活した[2]。しかしこの頃から枢密顧問官の数が増加したため、枢密院が行政を取り扱うのは難しくなった。とりわけ王政復古後、チャールズ2世の信任の元に国政を主導した初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドが枢密院の行政事務をいくつかの委員会に分け、1679年にチャールズ2世がこの状態を公式に宣言したことで枢密院の行政府としての歴史は事実上終わりを告げた[4]。さらにクラレンド伯失脚後にはチャールズ2世が枢密顧問官の中から選抜した委員会Cabalが行政を取り扱うようになった。ここで審議したのちに枢密院の全体会議にかけるのが慣例となり、これが内閣(Cabinet)の端となった[2][5]

以降枢密院の政治的影響力は低下し続け、また名誉革命後の議会政治・政党政治の発展に伴い、枢密院議長 (Lord President of the Council) は政権交代によって交代する閣僚職の一つとなった[6]

とはいえ枢密院令によって行政権限はその後も残した。また1833年からは枢密院の中に司法委員会 (Judicial Committee) が設置され、教会裁判所 (Ecclesiastical court) と海外領土からの上訴を取り扱うようになった[2]。また枢密院の重要な行政権能として教育委員会 (Board of Education) が近代まで残った。同委員会は枢密院副議長 (Vice President of the Council) が主導したため、枢密院副議長もしばしば閣僚となった。しかし1899年に至って同委員会は枢密院から独立した省庁になっている[7]
構成

現在は、常時400人程度の枢密顧問官 (Privy Counsellor) によって構成されている。首相の助言に基づく国王の勅許状によって枢密顧問官は任命される。主要閣僚[注釈 1]、2人の国教会大主教、法曹高官などから選ばれるのが慣例になっている。またコモンウェルス諸国から王権行使を求められた場合に備えて、コモンウェルス諸国の政治家や法曹からも任命される。そのため枢密院はコモンウェルス統合の象徴的機関にもなっている[8]

枢密院の長である枢密院議長は、内閣の閣僚職の一つであり、与党政治家が務めているので、内閣の助言と枢密院の助言が実質的に異なることはない[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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