同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子五代目月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)、七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、二代目三遊亭歌奴(後の三代目三遊亭圓歌)らがいる。 七代目 林家正蔵 中根音吉 海老名榮三郎は本名の初名。長男なのに「榮三郎」と名付けられたのは父正蔵の本名が海老名竹三郎だから。 しかし大人になった時に長男らしい名の泰一郎と改名している。 自らの息子達の名には「泰」の字をつけている。そして、長男・九代目正蔵(泰孝)も息子達(三平の孫)に長男に「泰良(やすよし)」、次男に「泰宏(やすひろ)」とそれぞれ「泰」の字を付けている。(注:泰良→林家たま平、泰宏→林家ぽん平)。 ただ、「泰」の字を付けられている三平の孫は、長男・九代目正蔵(泰孝)の2人の息子(泰良、泰宏兄弟)のみで、長男・九代目正蔵の長女(海老名あづき)や、長女・美どりの息子や、次男・二代目三平の息子には「泰」の字は付けられていない。 多くの資料ではこれを彼の初名としている。父正蔵が「こいつ(三平)は根が甘ちゃんだから甘蔵にするか」としてつけたという。しかし公式プロフィールではこの名を実際に名乗ったという事実はないとされる。 もともと、海老名家は「林家」という名と関係がなかった。それは以下の理由による。 父正蔵の前名は七代目柳家小三治である。当時人気のあった初代柳家三語楼の一門であった。やがて落語協会内部で派閥抗争が起こり、初代三語楼一門は全員落語協会を脱退し、新たに初代三語楼を会長とする「落語協会」(いわゆる「三語楼協会」)という、つまり全く同名の組織を別に結成するという挙に出た。抗争は、互いに独立した二つの協会間の争いに変質したのである。 七代目柳家小三治(七代目林家正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥四代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである。東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った。しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった。つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである。この異常事態に対し、別団体睦会の五代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(七代目)。この名は留め名であり、小三治より格上であった。これにより本来海老名家とは縁のない「林家」の屋号を名乗ることになったのである[注釈 2]。 三平は、父正蔵がかつて名乗っていた前座名である。師匠が柳家三語楼なので「三」の字を採った。ただし、上記のように父は柳家なのでその名は「柳家三平」であった。ゆえに父は三平の初代には数えられていない。 三平は二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。真打への昇進ともなれば、落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。五代目小さんは、自らの前名「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。小三治は柳派の出世名である。これをもって彼を柳派の正式な一員とし、ホープとして育てる事を約束するようなものである。そして都合のいいことに、三平本人の父の前名でもある。 一方、師匠七代目橘家圓蔵もまた、自らの前名「月の家圓鏡」を三平に名乗らせたいという意向を持ち、さまざまな画策を行った。圓蔵は圓蔵で三平を橘家のホープ、そして自らの後継としたかったのである。 三平は師匠圓蔵案(師匠の名を襲名)を一貫して拒み続けた。しかも小さん案(父の名を襲名)も受け入れず、結局どの名跡も襲名することはなく「林家三平」のままで真打となったのである(五代目柳家小さん『咄も剣も自然体』)。そして、三平の名を一代で大看板にした。 結局月の家圓鏡の名は弟弟子の橘家舛蔵が襲名した。三平がテレビで人気を博していたころ、舛蔵改メ五代目月の家圓鏡は、主にラジオのトーク術で人気を博し、三平同様演芸界のスターダムにのし上がってゆくことになる。のちの八代目橘家圓蔵である。 父正蔵没後6か月後の1950年4月22日、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。 五代目柳家小さんの名跡をめぐり、兄弟子五代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)と弟弟子九代目柳家小三治が争い、馬楽が負けたからである。 小さんの名跡争いで馬楽が負けた原因は、小三治が三平の大師匠で実力者八代目桂文楽の預かり弟子であり強力な後援を受けていたことと、元々馬楽が三遊派から柳派に移籍した「外様」であったことが影響している。 当然、馬楽は不満である。四代目柳家小さんは四代目馬楽襲名後に四代目小さんを襲名した経緯から、馬楽を名乗った後は小さんになるのが通例であったが、襲名があっても香盤は変わらないので、“小さん”の名前が馬楽より格下となる「ねじれ現象」を生じてしまう。これでは差し障りがあった。 小三治には四代目小さん未亡人や文楽が後盾になっており、また折角の好機でもあるため馬楽に譲ろうとはせず、むしろ馬楽に自分より格上(又は同等)の名跡を襲名するように促す。 一方馬楽は空席の名跡を探していた時、怪談噺を得意とする「正蔵」が丁度空いている、と周囲に促され、急遽「一代限り」の約束で父同様五代目左楽を仲立ちに海老名家から正蔵の名跡を借り、八代目林家正蔵を襲名した。 父正蔵の一周忌すら済んでいないこの時期に、関係の薄い馬楽に名跡を譲らなければならなかったことは、当時の三平の境遇をよく表している。名跡は貸与しただけであり、勿論馬楽が三平の後見となってくれるというようなことは一切なかった。一方、八代目正蔵側から見れば、七代目正蔵襲名に至る経緯を知っているために、この名跡を「貸与」とする扱いには釈然としなかったらしい(「七代目林家正蔵」参照)。 なお、三平が正蔵を名乗ることは遂に叶わず、八代目正蔵よりも先に死去してしまう。
三平死後の年譜
1980年、三平の死去に伴い長男・こぶ平が林家こん平門下へ移籍。
1981年、こぶ平が二つ目昇進。
1987年、こぶ平が真打昇進。
1989年、次男・泰助がこん平に弟子入り。前座名「いっ平(ペい)」。
1993年、いっ平が二つ目昇進。
1994年5月29日、こぶ平の長男・泰良(やすよし)(現在の林家たま平)誕生。
1995年、三平の自宅を改造して作った記念館「ねぎし三平堂」が開堂。
1996年7月31日、こぶ平の次男・泰宏(やすひろ)(現在の林家ぽん平)誕生。
2002年、いっ平が真打昇進。
2005年3月、こぶ平が「九代目林家正蔵」襲名。
2009年3月、いっ平が「二代目林家三平」襲名。
2013年4月、泰良が正蔵の元に弟子入り。前座名「たま平(へい)」。これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。
2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。
2017年11月、たま平が二つ目昇進。親子4代での二つ目昇進は史上初。
2019年4月、泰宏が正蔵に弟子入り。前座名「ぽん平(ペい)」。
2020年12月17日、総領弟子のこん平が77歳で死去。
家族
父:七代目林家正蔵(本名・海老名竹三郎(たけさぶろう))
妻:海老名香葉子
長女:海老名美どり(夫は峰竜太)
孫:下嶋兄
次女:泰葉
長男:九代目林家正蔵(本名・海老名泰孝(やすたか)、妻は海老名有希子)
孫:海老名あづき
孫:林家たま平(本名・海老名泰良(やすよし))
孫:林家ぽん平(本名・海老名泰宏(やすひろ))
次男:二代目林家三平(本名・海老名泰助(たいすけ)、妻は国分佐智子)
家系図
初代 林家三平 海老名香葉子 中根喜三郎
峰竜太 海老名美どり 泰葉 九代目 林家正蔵 二代目 林家三平 国分佐智子
下嶋兄 林家たま平 林家ぽん平
名前
海老名榮三郎
林家甘蔵
林家三平
なぜ「林家」なのか
なぜ「三平」なのか
また、上方落語の五代目林家正三の弟子、初代露の五郎の若名乗りが「林家三平」だったが、系譜的に別であるため、三平の初代には数えられていない。
林家三平を名乗り続けた理由
林家正蔵の名跡
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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