林家三平_(初代)
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三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを徹底的に敵視・軽視し、冷遇していた実態[注釈 11]を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところで、自身とその一門にとっては百害あって一利なしと[注釈 12]考え、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは一貫して揺らぐことはなかった。

なお、三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所ならどこまでもご一緒します」と泣いたという。圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードでもある。なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。

また、興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

落語の世界では芸がこれから円熟すると言われる50代半ばで肝臓がんによって早世した三平ではあるが、周囲の証言によればその最期もネタできっちり締めたという。

ベッドの上にあっても亡くなる数時間前まで、新聞や週刊誌から面白いネタや情報を仕入れようとしていたと言われる。

死ぬ間際になっても、なおその芸人根性を指し示した様子を描いた文章に以下のものがある[3]。しかし、容体が急変、三平は垂死の床にあって意識が混濁してきた。そこに、医師が呼び掛けた。

医師「しっかりして下さい。あなたのお名前は?」
三平「加山雄三です」

父・三平のこのような芸人根性を目の当たりにしたこぶ平は、その際「天才だ。かなわない」と驚愕したと語っている。また、義兄の中根は「泰一郎さん(三平の本名)はお笑い芸人に向いているだろう」とこの時思ったという。
三平一門の結束と矜持

三平の一門弟子たちは、三平没後久しい現在もなおその結束の固さで芸能の世界に知られている集団である。

落語の世界においては、師匠の死去を区切りとして一門が解散するのが通例となっている。だが、三平の門下たちは、林家こん平を中心人物として三平の死後も長らく「三平一門」として事実上の一派を成してきた。三平は落語家以外にも林家ペー林家パー子林家ライス・カレー子といった漫談家・漫才師も育てているが、何れも三平門下として三平の芸の系譜を受け継いでいることを大切にしており、この一門の結束の固さは落語界でも特筆すべき存在である。

これらの背景には上述の落語協会分裂騒動がある。三平が死去した1980年秋当時の落語協会にはこの騒動の後遺症がまだ色濃く残っており、以降、騒動の経緯から三平とその一門と、三平の師匠(こん平たちから見れば大師匠)である七代目圓蔵の一門などの間にはある種のわだかまりが残っていた[注釈 13]。また七代目圓蔵も三平に先立つ1980年5月に死去しており、その一門は事実上の解散となっていた。そこに来て三平が50代半ばで死去したから、修行中の三平の弟子たちは同系の師匠を頼るに頼れず行き場を失った事実上の「落語界の孤児」とでも言うべき状態となり、結果として総領弟子で当時三平一門生え抜きでの唯一の真打でもあった林家こん平が一門をそのまま継ぎ、弟弟子たちはそのままこん平の弟子になった。そして、その背後には海老名家(未亡人の海老名香葉子)と義兄の中根喜三郎が依然としてバックに付き、事実上のオーナー的存在となった。既に真打となって8年を経た身であったとはいえ、この様な形で三平に代わり年若くして[注釈 14]一門を率いて否応なく独立独歩の道を歩む事になったこん平が、分裂騒動でギクシャクした落語協会の人間関係の中で如何に辛酸をなめさせられたかは、香葉子の著書『おかみさん』に描かれているとおりである。

その様な過酷な状況を一門は一丸となって乗り越えながら、三平の弟子・孫弟子から数多くの真打を誕生させた。そして、一門に名を連ねた三平の息子2人も落語家として育て上げ、ほぼ四半世紀を費やしながらついには泰孝がこぶ平を経て九代目正蔵、泰助がいっ平を経て二代目三平の名跡を襲名するまでに至った。九代目正蔵・二代目三平はともに複数の弟子(三平にとっては曾孫弟子)を採っており、さらに九代目正蔵は既に直弟子から5人を真打に昇進させ[注釈 15]、2014年には落語協会の副会長に着任するなど、協会内における重鎮の地位になっている。九代目正蔵の2人の息子達も「林家たま平」(長男:泰良(やすよし)、二ツ目)と「林家ぽん平」(次男:泰宏(やすひろ)、前座)の新たな「海老名兄弟」として、それぞれ曽祖父から続く四世落語家の道を歩んでいる。

一方で一門の惣領弟子として守り続けてきたこん平は、上述のストレスや過度の飲酒から2004年8月に多発性硬化症を発症し入院。初回から出演していた『笑点』降板を余儀なくされた(後任は弟子の林家たい平が就任)。こん平はその後リハビリを行い回復はしたものの、高座復帰が出来る体調までは戻らず、落語家としては事実上のリタイア状態となり2020年12月に死去した。こん平が倒れた後に実施された前述した海老名兄弟の正蔵・三平襲名の後見は八代目正蔵の弟子でこん平とは『笑点』で共演していた林家木久扇が行っている。

毎年8月31日の浅草演芸ホールの余一会は、初代三平の一周忌となった1981年[注釈 16]より「(初代)林家三平追善興行」が昼夜を通して組まれることが恒例となっており、色物や孫弟子も含む三平一門の弟子がほぼ総出演する一門会となっており、孫弟子として一門に名を連ねた三平の孫のたま平(泰良)とぽん平(泰宏)の兄弟も毎年出演している。病により事実上休業状態だった一門の惣領弟子であるこん平も亡くなる2年前(2018年)まで「ご挨拶」という形で出演していた。また、三平の直弟子は年齢的な面でも徐々に一門会への出演者が減ってきており[注釈 17]、(三平死去に伴い移籍した者以外の)こん平や正蔵などに入門した孫弟子、さらに曾孫弟子[注釈 18]の出演者の割合が増えてきている。42回目を迎えた2023年は昼の部は二代目三平(泰助)、夜の部は九代目正蔵(泰孝)が主任(トリ)を務めている。

また、三平の「下ネタは芸を腐らせるもの」という考え方も、一門の伝統として受け継がれている。三平の没後久しい現在でも、三平門下は元より孫弟子に当たる者達まで三平系列に属する芸人の殆どが、「三平一門の不文律」として下ネタを避けている事は芸能界でも有名である。実際、このために九代目正蔵(当時こぶ平)はWAHAHA本舗の旗揚げ公演時のメンバーでありながら、早々に脱退する事になった。ただし、希有な例外として、こん平が『笑点』の大喜利で時折出していた「肥溜めに落っこちた」などの肥溜めネタがある。また、三平本人も「性教育」「感じやすいの」などのような性を連想させるネタをいくつか持っている[10]。ただし前者は「こん平=田舎者の権助」という大喜利でのキャラクター要素の一つの象徴としての田舎者ネタとしての意味合いが強く、後者は性とは一切関係のない内容のオチがついているものがほとんどなため、下ネタとは方向性や意図が大きく異なるものともいえる。
ネタ

寄席での演目名は必ず『××月の唄』となっていた。××月のところには上演の月が入る。そして、何月だろうが関係なく、何時も同じく、小噺を羅列するだけで終わってしまうのだった。

落語は物語(ストーリー)から成り立つ、という固定観念を持つ者には、理解できないどころか耐えられないのが三平落語で、ストーリーもシチュエーションもない。三平落語ははなから物語を捨てている。

落語家は高座で「つかみ込み」をやるのは絶対的禁忌とされている。三平は他のジャンル(歌謡界(西城秀樹……)などから「つかみ込む」ことはあっても他の落語家のギャグをパクることはなかった。つかみ込みを禁ずる理由は同業者からの剽窃を防止することにあるので、三平は最低限のルールを守っていたのである。

多くの小噺・ギャグは、実は自作ではなく、以下の人たちをライターとして起用し作成したとされている。

三笑亭笑三(ほぼ同期の落語家)

はかま満緒(脱線問答)

小島貞二(『定本・艶笑落語』編纂者)

能見正比古血液型占い創始者。『定本・艶笑落語』編纂者)

神津友好(『笑伝 林家三平』作者)

相良順

柊達雄

他にも存在する可能性があるが、これらのギャグは三平のために新たに書かれたもので、その意味ではオリジナルであるといってよい。

持ちネタは『有楽町で会いましょう』『源平盛衰記』『源氏物語』などであるとされるが、『有楽町?』はともかく、『源氏物語』もひどい(三平らしい)もので、話を全く進ませようとせず、いつものたわいのない小噺で時間を埋め尽くすのであった。よく演じた古典ネタは「湯屋番」「たらちね」のほか「浮世床」などで、ところどころに彼独自のカラーが見られるが、全編を通してきっちりと演じていた。

三平は全盛時代から「歌謡曲やコントばっかりやってないで、古典落語をやったらどう?」とからかわれるのが常であったが、死ぬまで堂々と三平流を押し通した。また、晩年には三遊亭圓丈渋谷ジァン・ジァンで開催していた実験落語にも興味を示しており、圓丈に直接出演を依頼したこともあった(当の圓丈はあまりに恐れ多くて断ってしまったという)[13]
『源平盛衰記』

源平盛衰記』は講談で知られた軍記で、父正蔵が落語に取り入れた。取り入れた、とはいえ大胆な改作で、何しろ常盤御前カフェー(現在のカフェとは意味が異なる)の女給として接待をするというもの。時代を現代(といっても昭和初期)に合わせ、昭和初期の風俗(円タク、コーヒー、カツレツなど洋食)を描き切るというものだった。これら流行の最先端にいた人は軍記とのギャップが可笑しさとなり、和服で昔ながらの生活をしていた人(当時そういう人はかなりいた)には(その人にとって)未知の未来構図を垣間見ることが出来るという、かなり秀逸なものだった。

三平は父の芸を受け継いだが、父のギャグを部分的に取り入れるも、出てきた内容はいつもと同じで小話の羅列である。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」「驕る平家は久しからず」と口上を一通り述べた後は、「平家物語のこの難解な文章がスラスラッと喋れるあたり、三平もあんまりバカではありません。もう大変なんすから、奥さん聞いてください…」から始まる小噺やギャグが延々と続き、話が展開しない、漫談風落語であった。

なお義経のひよどり越えを「日傭取り越え」(費用取り越えではない・日雇取り、とは日雇い労働のことである)のギャグは父正蔵が始めたもの。


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