林家三平_(初代)
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また、スケジュールが忙しすぎて生放送にしばしば遅れ、その時にカメラに向かって「(遅れて)どうもすいません」と謝っていたのがいつのまにか「三平の代名詞」になった[8]。子供が泣けばあやす、客がトイレに行けばそれをいじるなど、客いじりにも造詣があった[3]。持ち時間制限が厳しいテレビでの露出が目立ったという事情もあり、小噺を繋いだ漫談風落語が一般の印象に強く、本格的な古典は苦手と受け取られがちである。しかし、実際には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っている噺家であった。

その一方で長男の泰孝(後の九代目正蔵)は、「親父は、弟子の名前を付けるのが下手だった」と回顧している。泰孝が三平に入門した時に付けられた「こぶ平」という名前は、弟の泰助(後の二代目三平)が「兄ちゃんは小太りだから、こぶ平という名前がいいんじゃないか」と言ったことから付けられた名前である[9]。その他にも、種子島出身だから林家種平北海道出身だから林家とんでん平という調子で、安易な名前を付けられた弟子も多い。もっとも、安易な名前だが落語家の定型的な名前からは逸脱しており、インパクトはあって覚えられやすい、また三平の弟子だと判りやすいという一面もあり、弟子たちにとって決してマイナスになるものではなかった。その泰孝も、自身の長男・泰良に「たま平」という名前を付けているが、由来は泰良が中学、高校とラグビー部だったという安易な理由であった。その他にも本名が武史だから「たけ平」や大阪出身だから「たこ蔵」など泰孝の弟子の名付け方は三平を踏襲したものが多い。

この様なエピソードばかりが目立ってしまうきらいはあるが、江戸落語の噺家としてを大変に重んじる人物であった。服装は常に折り目正しく、高座には必ず黒紋付き袴で上がり、他の多くの噺家のように色つきの着流しで簡単に済ませるようなことはしなかった。洋装をまとうにしても高価なタキシードやスーツをきっちりと着こなしており、いい加減な服装・普段着で客の前やテレビに登場することはなかった。この点についていえば、テレビ本格普及以降に台頭した落語家のみならず芸能界で活躍したタレント・芸人を見渡しても希有な存在である。

自身の小噺に入っていた下ネタに放送禁止用語は一切使われておらず[10]、そうしたものを「外道の芸」「芸を腐らせる」として徹底的に嫌っていた。

テレビの漫談では、ニコリとも笑わないアコーディオン弾きの小倉義雄との対比的なコンビが特に人気を博した。加えて、高座では、正座が当たり前だった常識を覆し、歌を立って歌うといった革新的なことから、「立体落語」という言葉を大衆に認知させた。また、弟子の林家ペーパー子夫妻と共に数々の珍芸を披露。ペーは一時期三平のバックギタリストとして高座を共に務めていたことがある。

三平は芸人仲間相手の酒席の場でも、寄席などで披露していた「すべり芸的なギャグ」をサービスとして連発していたという。立川談志がたまりかねて三平に意見をしても、一向にその調子を変えず、談志は三平の「本音をけっして見せない姿」に不思議な思いを抱いたというが、三平の持つ芸や華を買っており、「(大化けして、)モンスターならぬ大スターになった」と評した[11]

前座が出演者の名前が書かれためくりを返して"林家三平"と出ただけで本人はまだ高座に上がっていないのに客が笑ったと言う。
戦争

三平は戦時中には陸軍に徴兵されている。この軍隊経験について本人は黙して語らなかったが、上官からは相当のいじめ・しごきに遭ったと伝えられている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また、夢であった医大への進学、医師への道も、戦争と終戦後の社会の混乱の影響で断念しなければならなくなった。[独自研究?]

しかし、三平と戦争ほどミスマッチな取り合わせもない。この史実を後年の高座で取り上げた落語家曰く、

「三平さんまで兵隊行ったんですから、いかに当時の軍部が追いつめられていたかってことですよ」[12](落語家は徴兵で)「十五、六人ぐらい行ってんですよ。で、一人も死なないで全部帰って来ちゃった。非国民ですねー。三平さんなんか、太って帰って来た。何してたんでしょう、あの人は」[12]川柳川柳ガーコン』)。

「あの人が戦争に行ったのだから日本は勝てるわけない。敵はびっくりしただろうね、『三平ですどうもすいません。ズドン(鉄砲の音)』」(3代目三遊亭圓歌)

妻・香葉子は、1945年の東京大空襲で一家のほぼ全員を失っている(ただ、香葉子の三兄にあたる中根喜三郎はただ一人空襲を生き延びている)。以降は流転の末に落語家(三代目金馬)の家で育てられた。
私生活

売れ始めた当初は遊びが過ぎて家に殆ど金を入れず、妻香葉子は内職に追われていたという。内職片手に子供に授乳するため、左乳のみが垂れてしまったという逸話もある。

同時期に活躍した石原裕次郎とは親交が大変深く、その付き合いは家族ぐるみのものであった。三平が1980年に、裕次郎が1987年にそれぞれ没した後もその親交は続いており、長男泰孝の九代目正蔵および次男泰助の二代目三平の襲名披露に際しては石原プロモーションによる全面的なバックアップが行われ、大変に豪華なものとなった。

1971年七代目立川談志参議院選挙に立候補した時には「ご町内の皆様、おはようございます。林家三平がご挨拶にあがりました。奥さんどうもすいません、三平です。こうやったら笑って下さい(と、額にゲンコツをかざす)。皆さん、ここにいる圓歌さんは、十年に一人出るか出ないかという芸人です。この談志さんは五十年に一人。この私、三平は百年に一人の芸人と、文化放送の大友プロデューサーが言ってくれました。そして、こちらの円鏡さんは一年に一人という……」と言ったところ、円鏡が「兄さん、そりゃあシャレにならねぇ」と止めに入るような応援演説だったため、誰が立候補したのか分からないような無茶苦茶なものだったという。

かような応援演説のせいで勘違いした者がおり、この選挙で「林家三平」と書かれた無効票が、圓歌によれば24票入っていたという。しかし五代目鈴々舎馬風は28票という数字を挙げている。いずれにしても基本的には選挙で無効票の個別内容とその票数までもが詳細に公開されることはないので[注釈 10]、これらは噺家たちによるネタと見るべきものである。とはいえ三平の応援演説が原因で、実際にこのような「事故」が多少なりとも発生したであろうことは想像に難くない。

ネタ作りの時に仕事仲間から自宅の仕事部屋が暑くて困ると言われ、唐突にエアコン(当時は高級品)を購入した。しかし下の窓に設置したためちっとも涼しくならず、みんな寝転がってネタを作ったり、移動が大変なので自家用車を買うことになり、夫人に相談も無しで運転手付きの車を購入するなど、値の張る衝動買いをしばしば引き起こしている。

長男・泰孝(九代目正蔵)の回想によると、子どもの頃の父・三平に対するイメージは「典型的な優しいお父さん」という印象だったそうだが、落語家として弟子入りした直後からそれまでの態度を一変して厳しい姿勢を取るようになったという。古典の稽古で噺を上手く出来ない度にゲンコツを喰らっていたなど、下積み修行時代には容赦なく殴ることも少なくなかったとのこと。このことに関して九代目正蔵は「父は、僕を一人前の噺家にするために人並み以上の責任感と言うものを背負っていたのだろう。だからあのときの拳骨の一発一発が僕に対する愛情だった」と語っている。これは三平自身が大正生まれで、まだ前近代的な価値観を持っていたが故、そして自身の跡継ぎとなる長男が一門の誇りと信頼を汚さぬよう、立派な落語家に育て上げるという責任感の強さから、このような非常に厳しい指導を九代目正蔵に行っていたとされる。この姿勢は九代目正蔵にも受け継がれており、九代目正蔵自身の跡継ぎとなる長男・泰良(たま平)に対して、ゲンコツなどはしないものの三平と同様に非常に厳しい指導を行っている。

その反面非常に付き合いを重視しており、弟子達を連れて飲みに行って奢ることが度々あった。父親である七代目正蔵が吝嗇と呼ばれ、出費を伴う付き合いを嫌ったといわれたのと対照的であった。
晩年三平の仕事机

1978年六代目三遊亭圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動の際には、師匠圓蔵は三平・圓鏡も含む一門を挙げて新団体に参加する予定で、新団体旗揚げの場には圓蔵が三平を連れて来る手はずであったと言われている。当代一番人気の噺家であり落語界きってのテレビスターでもある三平を新団体へと参加させることができれば、彼こそが新団体にとって最大の切り札となるはずであった。

だが、赤坂プリンスホテルで行われた新団体の旗揚げの記者会見に現れたのは圓蔵・圓鏡だけで、三平はついに姿を現さず、新団体の参加者たちを動揺させることとなる。三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを徹底的に敵視・軽視し、冷遇していた実態[注釈 11]を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところで、自身とその一門にとっては百害あって一利なしと[注釈 12]考え、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは一貫して揺らぐことはなかった。

なお、三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所ならどこまでもご一緒します」と泣いたという。圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードでもある。なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。

また、興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

落語の世界では芸がこれから円熟すると言われる50代半ばで肝臓がんによって早世した三平ではあるが、周囲の証言によればその最期もネタできっちり締めたという。

ベッドの上にあっても亡くなる数時間前まで、新聞や週刊誌から面白いネタや情報を仕入れようとしていたと言われる。

死ぬ間際になっても、なおその芸人根性を指し示した様子を描いた文章に以下のものがある[3]。しかし、容体が急変、三平は垂死の床にあって意識が混濁してきた。そこに、医師が呼び掛けた。

医師「しっかりして下さい。


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