林家三平_(初代)
[Wikipedia|▼Menu]
1957年(昭和32年)10月中席、上野鈴本演芸場で、二代目三遊亭歌奴(後の三代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目の身分のままで主任(トリ)を務めた。

1958年(昭和33年)10月、真打昇進(初代林家三平として)。口上は大師匠の八代目桂文楽のほか、五代目柳家小さん六代目三遊亭圓生五代目古今亭志ん生が務める[4]。なお、この真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、初代林家三平の名を生涯貫く。


尚、真打ち披露での五代目古今亭志ん生の口上は1994年発売の「スーパー落語1500 林家三平」の「三平グラフィティ」にて聞く事が出来る。付属する解説によると「一席とは云いながら、22年間に渡る数十本の録音テープから抜粋再編集して一席の如くまとめ上げたものである」とあり、数十本の録音テープの中から収録されている。真打ち披露の口上の録音は珍しく、しかも故人の五代目古今亭志ん生によるものである為貴重な録音と言える。ただ、録音年月日が不明な為何処で行った真打ち披露での口上かは不明。

1961年(昭和36年)1月17日、第二子・泰葉生まれる。翌1962年(昭和37年)12月1日、第三子・泰孝(やすたか)(後に林家こぶ平→九代目林家正蔵)生まれる。

1967年(昭和42年)、日本テレビ「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以後、1979年(昭和54年)まで不定期出演。

1968年(昭和43年)、落語協会(六代目三遊亭圓生会長)理事就任。

1970年(昭和45年)12月11日、第四子・泰助(たいすけ)(後の二代三平)生まれる。

1978年(昭和53年)5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。またこの年、長男・泰孝が三平に弟子入りし、「こぶ平」を名乗る。

1979年正月、脳溢血で倒れて東京逓信病院に入院。1週間の昏睡を経て右半身が麻痺し、言語症が生じたがリハビリを重ね、10月に復帰[5]

1980年(昭和55年)9月18日肝臓がんで入院し[5][3]9月20日東京逓信病院で死去[1][3][5]。54歳没(享年56)。同年9月7日の上野鈴本演芸場が最後の高座になった[5]。最後の言葉は長男・こぶ平(泰孝)に対する「なんでもまじめにやれよ」であったという[3]法名は「志道院釋誠泰」。墓所は父と同じ常福寺となった。

同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子五代目月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)、七代目立川談志五代目三遊亭圓楽二代目三遊亭歌奴(後の三代目三遊亭圓歌)らがいる。
三平死後の年譜

1980年、三平の死去に伴い長男・こぶ平が
林家こん平門下へ移籍。

1981年、こぶ平が二つ目昇進。

1987年、こぶ平が真打昇進。

1989年、次男・泰助がこん平に弟子入り。前座名「いっ平(ペい)」。

1993年、いっ平が二つ目昇進。

1994年5月29日、こぶ平の長男・泰良(やすよし)(現在の林家たま平)誕生。

1995年、三平の自宅を改造して作った記念館「ねぎし三平堂」が開堂。

1996年7月31日、こぶ平の次男・泰宏(やすひろ)(現在の林家ぽん平)誕生。

2002年、いっ平が真打昇進。

2005年3月、こぶ平が「九代目林家正蔵」襲名。

2009年3月、いっ平が「二代目林家三平」襲名。

2013年4月、泰良が正蔵の元に弟子入り。前座名「たま平(へい)」。これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。

2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。

2017年11月、たま平が二つ目昇進。親子4代での二つ目昇進は史上初。

2019年4月、泰宏が正蔵に弟子入り。前座名「ぽん平(ペい)」。

2020年12月17日、総領弟子のこん平が77歳で死去。

家族

父:
七代目林家正蔵(本名・海老名竹三郎(たけさぶろう))

妻:海老名香葉子

長女:海老名美どり(夫は峰竜太

孫:下嶋兄


次女:泰葉

長男:九代目林家正蔵(本名・海老名泰孝(やすたか)、妻は海老名有希子

孫:海老名あづき

孫:林家たま平(本名・海老名泰良(やすよし))

孫:林家ぽん平(本名・海老名泰宏(やすひろ))


次男:二代目林家三平(本名・海老名泰助(たいすけ)、妻は国分佐智子


家系図

  七代目 林家正蔵   中根音吉

                
      
  初代 林家三平 海老名香葉子 中根喜三郎
  
                    
               
峰竜太 海老名美どり 泰葉 九代目 林家正蔵 二代目 林家三平 国分佐智子
   
                    
      
  下嶋兄     林家たま平 林家ぽん平  


名前
海老名榮三郎

海老名榮三郎は本名の初名。長男なのに「榮三郎」と名付けられたのは父正蔵の本名が海老名竹三郎だから。

しかし大人になった時に長男らしい名の泰一郎と改名している。

自らの息子達の名には「泰」の字をつけている。そして、長男・九代目正蔵(泰孝)も息子達(三平の孫)に長男に「泰良(やすよし)」、次男に「泰宏(やすひろ)」とそれぞれ「泰」の字を付けている。(注:泰良→林家たま平、泰宏→林家ぽん平)。

ただ、「泰」の字を付けられている三平の孫は、長男・九代目正蔵(泰孝)の2人の息子(泰良、泰宏兄弟)のみで、長男・九代目正蔵の長女(海老名あづき)や、長女・美どりの息子や、次男・二代目三平の息子には「泰」の字は付けられていない。
林家甘蔵

多くの資料ではこれを彼の初名としている。父正蔵が「こいつ(三平)は根が甘ちゃんだから甘蔵にするか」としてつけたという。しかし公式プロフィールではこの名を実際に名乗ったという事実はないとされる。
林家三平
なぜ「林家」なのか

もともと、海老名家は「林家」という名と関係がなかった。それは以下の理由による。

父正蔵の前名は七代目柳家小三治である。当時人気のあった初代柳家三語楼の一門であった。やがて落語協会内部で派閥抗争が起こり、初代三語楼一門は全員落語協会を脱退し、新たに初代三語楼を会長とする「落語協会」(いわゆる「三語楼協会」)という、つまり全く同名の組織を別に結成するという挙に出た。抗争は、互いに独立した二つの協会間の争いに変質したのである。

七代目柳家小三治(七代目林家正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥四代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである。東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った。しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった。つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである。この異常事態に対し、別団体睦会の五代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(七代目)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:103 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef