林家こん平
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退院後は自宅で家族による介護を受けた[13][14]

2014年5月、こん平の介護およびマネージメントをしていた二女の咲(えみ)が「一般社団法人林家こん平事務所」を設立。8月、都電荒川線を走る都電1両を借り切っての興行「都電落語会」のプロデュースを発表。同年8月22日に第一回の「都電落語会」が開催された。2014年10月15日放送の「笑点特大号」(BS日テレ)では、「都電大喜利」で三遊亭小遊三と弟子の林家ぼたんと共演している。

同年8月31日には『24時間テレビ 愛は地球を救う37』に出演。2013年に起きた自身の病状のエピソードとともに、その後遺症による左足壊死と右手の麻痺と闘いながらリハビリに取り組む姿が特集された[7]。メインスタジオの日本武道館には次女とともに車椅子で訪れ「1、2、3、チャラーン!」を10年ぶりに披露した[7]

翌年、2015年8月23日の『24時間テレビ38』にも出演。車いすでの登場だった昨年とは異なり、笑点の舞台(降板直前に座っていた右端である6枠、降板後はたい平がそのまま座り、現在は桂宮治が座っている)に、弟子のたい平とぼたんの力を借りて登場。正座が困難とされている中、笑点メンバーに見守られての着席となった。MCに促されるまもなく、声を振り絞り「1、2、3、チャラーン!」を披露。桂歌丸林家木久扇、たい平らによるコメントの後、再度「チャラーン!」を披露し、2020年の高座復帰を目指してリハビリを継続することを明らかにした。

2016年4月17日放送の『笑点』の真打昇進披露口上において、三本締めの発声として笑点本編に12年ぶりに出演した(新真打の中に、こん平の弟子である林家ぼたんが含まれていることによるもの)。

2016年8月27日の『24時間テレビ 愛は地球を救う39』には、同年のチャリティーマラソンのランナーを務めるたい平のスターターとして登場。直筆のメッセージが書かれたタオルをたい平に手渡し、「1、2、3、チャラーン!」の掛け声でマラソンがスタートした。8月28日のエンディングにも出演し、武道館にゴールしたたい平を出迎えた。

2019年4月17日、病院のMRI検査で小脳梗塞が発見され、そのまま緊急入院。手術は行わず投薬治療で回復し、5月3日に退院した[15]

2020年4月に体調を崩し、入院。一時は危機的な状況となったが持ち直して退院。しかしこの時点で「あと数か月」と余命宣告を受け、自宅で最期を迎えたいと終末医療を選択し、亡くなるまで療養していた[16]

2020年12月17日14時2分、誤嚥性肺炎のため、東京都豊島区の自宅で死去[3][17]。77歳没。葬儀は近親者で行われ、訃報は同月21日に落語協会から公表された[3][4][18]。2021年10月20日、「新潟県の名声を高め、県民のふるさと意識を高揚させた顕著な功績があったこと」を称え、新潟県民栄誉賞が授与された(受賞日は死没日の2020年12月17日付)[19]。死去から約11か月後の2021年11月23日、「都電落語会7周年記念感謝祭」を兼ねて「偲ぶ会」が都内で行われた[20]。また、『笑点』ではこん平の死去が発表されてから最初の放送の2020年12月27日放送のオープニングでこん平の追悼特集が放送された。
略歴花菱は林家三平一門の定紋

1958年3月 - 中学卒業後、初代林家三平に入門。前座名「こん平」。

1962年11月 - 三遊亭吉生と共に二ツ目昇進。

1965年4月 - 『金曜夜席』(日本テレビ)出演。

1966年5月 - 『笑点』(日本テレビ)に第1回から出演[7]

1969年3月 - 『笑点』初代司会者・7代目立川談志との対立により、こん平含むメンバー全員が降板。

1972年

7月 - 『笑点』復帰。

9月 - 三遊亭圓彌と共に真打昇進[21]


2004年9月 - 『笑点』を休演。12月26日放送分から弟子のたい平が代役として出演。

2005年 - 多発性硬化症と診断されたことを公表。

2006年5月 - 『笑点』40周年を機に大喜利メンバーの座をたい平に譲り、『笑点』を降板。

2007年 - リハビリを続けながらも「第26回林家三平追善興行 林家一門会」にて高座復帰。

2010年3月 - 6年近い闘病・リハビリの日々を中心に半生をつづった著書を講談社から刊行。『笑点』ではたい平が翌月にPRした。

2020年12月17日14時2分 - 誤嚥性肺炎により死去。77歳没。

笑点でのキャラクター

前身番組『金曜夜席』(日本テレビ)の第3回から参加した古参レギュラーであり、同番組ではオレンジ色の色紋付を着用。長らく隣が小難しいインテリ系のくすぐりを得意とする三遊亭楽太郎(後の6代目三遊亭円楽)であるため、挨拶で楽太郎の長舌を受けて「私にはそういう難しいことはわからないんですが…」と頭を振りながらうそぶくことがしばしばあった[22]

地方収録の際は必ず「郷土の皆様、お懐かしゅうございます。○○(地方収録の行われている地名)で生まれて、新潟で育ったこん平が、故郷に戻って参りました」[22][注 4]とホラを吹き、2週目は「第二の故郷というのはありがたいもので、先程から友人知人が手に持ちきれないほどのお土産を持って楽屋を訪ねてきてくれております……」で始まり、「なお、会場の皆様にお知らせがございます。私の帰りのかばんには、まだ若干の余裕がございます」と挨拶した[22]。この新潟出身を前面に出したキャラをやり始めた当初は、まだまだ落語と言えば江戸前、東京という固定観念の強い時代であり、東京、特に下町出身者以外がこのように郷土愛をアピールする例は稀だったため批判も多かったと著書で述べている。

田舎者の権助役であり、大食いキャラ・食いしん坊ネタを売りにしており、メンバーからも攻撃のネタにされていた。『笑点』メンバーの中では一番頭の周囲が大きく、被り物に頭が入らなかったことがあった。「大喜利」では、よく座布団運びの山田隆夫の悪口を言って山田に突き飛ばされたり、蹴り飛ばされたりして座布団を全部持っていかれることが多かった。その他に肥溜めネタ(「2人は肥(恋)に落ちました」など)をはじめとする下品で汚いネタを得意とした[注 5]。故郷の千谷沢村をこん平は「チャーザー村」と呼び、「日本の小京都」と称したが、メンバーからは「人がいない」「ダムの底」などと罵倒された。その一方、「世界平和」「環境保全」などを高らかに謳うネタや、「グランドピアノを施設に寄付」「ニースの別荘」といった大金持ちキャラで回答することもあった。政治ネタを扱う場合には、同じ新潟県出身である田中角栄のモノマネをすることが多かった。

自身が休演することになり、こん平の代役として出演し始めた弟子のたい平のことを当初は非常に心配しており、この頃は『笑点』を全く見ていなかった。しかし、徐々にたい平が大喜利に慣れ始めると実力を認めるようになり、40周年を機に自身の席をたい平に託すことを決意した。40周年記念特番ではたい平に正式に席を譲る旨が書かれた手紙を送っていた。
「チャラーン」

挨拶の締めは、会場の観客と共に「1・2・3、チャラーン。こん平でーす!!」[22]。大元は『佐渡おけさ』であり、こん平が挨拶でうれしいお知らせをするときにチャイムの代わりとして歌っていたものが、歌の冒頭の「チャラーン」の部分だけ残り、現在の形に至る。

長らくこん平単独で「チャラーン」と叫んでいたが、2002年から観客が偶発的に呼応するようになり、最終的にはこん平と観客が大合唱する「視聴者参加型挨拶」と名づけた挨拶を行うようになった[注 6]。これ以降、隣の楽太郎や歌丸は「チャラーンをやる人は愚か者」「良識ある人は絶対にやらないでください」などと観客にお願いするという、一種のフリのような挨拶を行い、全員で「チャラーン」をやる際には二人が耳を塞いで迷惑そうに対処するのが恒例化する。

しかし、こん平の療養による休演後は楽太郎を中心に、他のメンバーも全員週替わりで「チャラーン」の代行をした。こん平の弟子のたい平が代役を務めてからはその回数は減ったが、2006年元日の『大笑点』フィナーレや、同年1月22日の2000回目の放送時、テレビ新潟開局25周年を記念して、こん平の地元・長岡市で収録された同年10月15日の放送時に「師匠こん平から言われていることでありますので」とたい平が観客と共に「チャラーン」を披露。また、「日テレアナウンサー大喜利」に定期的に出演していた藤井恒久は「こん平師匠直伝の視聴者参加型挨拶 最後の継承人」として、挨拶の際は必ず観客と一緒に「チャラーン」を行っていた。正蔵の弟でこん平の直弟子である2代目林家三平(当時の芸名は林家いっ平)もメンバーになる前の2005年4月に番組内で行われた9代目林家正蔵襲名披露口上の席上で、師匠快癒を祈念して「チャラーン」を披露した。


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