林家こん平
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1985年8月12日、当時の笑点メンバー(5代目三遊亭圓楽桂歌丸、こん平、初代林家木久蔵(現:林家木久扇)、三遊亭小遊三、三遊亭楽太郎(後の6代目三遊亭円楽)、古今亭朝次(現:7代目桂才賀)、山田隆夫)とともに翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りの予定だったが、当初予約した徳島空港行きに使われる航空機は遅延した上、同空港の悪天候により条件運行となったため、1つ後に出発する日本航空123便に搭乗して、神戸港から船で移動する案[9]が出された。しかしこの時、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ。きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したため、当初の予定通り徳島行きの便に搭乗し、結果として墜落事故を逃れることとなった[10]。なおその事故については、宿泊先のホテルへタクシーで移動中に知ったという。そのため、もしこの時こん平の一言がなかったら、笑点は全く違う歴史を辿るか番組自体が終わりを迎えていたかもしれない、と言われている。
闘病

2004年8月声帯を患い、入院。この入院は長引き、番組開始以来降板期間を除きほぼ無欠勤で出演し続けていた『笑点』も、2004年9月5日の放送を最後に初めて数回に渡って番組を休業することになり[注 3]、こん平の位置は座布団が積まれたまま空席となった。同年12月26日の放送から、こん平の弟子で若手大喜利のメンバーだった林家たい平が代役で出演することになる。

2005年5月22日に退院。当初「軽い脳梗塞も患っていた」と週刊誌で報道されたが、その後、同年3月に国立精神・神経センターの医師から多発性硬化症と診断されていたことを公表。退院後も通院しながらリハビリを行っていた。同年9月には笑点40周年記念本の撮影に参加し、他メンバーとは1年ぶりとなる顔合わせが実現した[12]

2006年、当時こん平は趣味の卓球ができるまで回復はしたものの噺家としての復帰は当面困難ということから、同年5月の『笑点』40周年を機に番組を降板し、こん平の代役だった弟子のたい平が後任として正式メンバーに昇格。『笑点』40周年スペシャルのエンディングでは、自身が直筆したメッセージが読まれた(歌丸が代読)。

なお、たい平が正式にメンバーとなってからもこん平の生前時は形式上は一時降板扱いとアナウンスされていたが、2020年に死去後に「たい平が正式にメンバーに就任した(2006年5月)時点で正式に降板」という形に変わっている。

先述の多発性硬化症により一時入院を余儀なくされたが、2008年2月28日の『スーパーニュース』(フジテレビ)内のコーナーや、同年4月の『発見!人間力』(民教協テレビ朝日ほか)で、卓球や発声練習、運動のリハビリを続けている様子が放送された。また、同年9月14日放送の『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)ではこの日のゲスト出演者だった三遊亭小遊三と卓球をする姿が放送されている。小遊三は「らくご卓球クラブには毎週顔を出し、体調に合わせてプレーをしている。1年前の復帰当時は球をラケットに当てるのがやっとの感じだったが、今ではラリーもできるようになった。右肩上がり(の回復)だ」とコメントしている。

2009年11月8日に放送された『笑点』の5代目三遊亭圓楽追悼番組の前半部分(思い出トーク)にて5年ぶりに同番組に出演し、元気な姿を見せた。

2013年、かねてより患っていた糖尿病が悪化し、左足の壊死が進んで呼吸困難に陥り、緊急入院し一時は心肺停止の状態となった。一命は取り留めたものの、壊死した左足の指を切断し、半年後に退院。退院後は自宅で家族による介護を受けた[13][14]

2014年5月、こん平の介護およびマネージメントをしていた二女の咲(えみ)が「一般社団法人林家こん平事務所」を設立。8月、都電荒川線を走る都電1両を借り切っての興行「都電落語会」のプロデュースを発表。同年8月22日に第一回の「都電落語会」が開催された。2014年10月15日放送の「笑点特大号」(BS日テレ)では、「都電大喜利」で三遊亭小遊三と弟子の林家ぼたんと共演している。

同年8月31日には『24時間テレビ 愛は地球を救う37』に出演。2013年に起きた自身の病状のエピソードとともに、その後遺症による左足壊死と右手の麻痺と闘いながらリハビリに取り組む姿が特集された[7]。メインスタジオの日本武道館には次女とともに車椅子で訪れ「1、2、3、チャラーン!」を10年ぶりに披露した[7]

翌年、2015年8月23日の『24時間テレビ38』にも出演。車いすでの登場だった昨年とは異なり、笑点の舞台(降板直前に座っていた右端である6枠、降板後はたい平がそのまま座り、現在は桂宮治が座っている)に、弟子のたい平とぼたんの力を借りて登場。正座が困難とされている中、笑点メンバーに見守られての着席となった。MCに促されるまもなく、声を振り絞り「1、2、3、チャラーン!」を披露。桂歌丸林家木久扇、たい平らによるコメントの後、再度「チャラーン!」を披露し、2020年の高座復帰を目指してリハビリを継続することを明らかにした。

2016年4月17日放送の『笑点』の真打昇進披露口上において、三本締めの発声として笑点本編に12年ぶりに出演した(新真打の中に、こん平の弟子である林家ぼたんが含まれていることによるもの)。

2016年8月27日の『24時間テレビ 愛は地球を救う39』には、同年のチャリティーマラソンのランナーを務めるたい平のスターターとして登場。直筆のメッセージが書かれたタオルをたい平に手渡し、「1、2、3、チャラーン!」の掛け声でマラソンがスタートした。8月28日のエンディングにも出演し、武道館にゴールしたたい平を出迎えた。

2019年4月17日、病院のMRI検査で小脳梗塞が発見され、そのまま緊急入院。手術は行わず投薬治療で回復し、5月3日に退院した[15]

2020年4月に体調を崩し、入院。一時は危機的な状況となったが持ち直して退院。しかしこの時点で「あと数か月」と余命宣告を受け、自宅で最期を迎えたいと終末医療を選択し、亡くなるまで療養していた[16]

2020年12月17日14時2分、誤嚥性肺炎のため、東京都豊島区の自宅で死去[3][17]。77歳没。葬儀は近親者で行われ、訃報は同月21日に落語協会から公表された[3][4][18]。2021年10月20日、「新潟県の名声を高め、県民のふるさと意識を高揚させた顕著な功績があったこと」を称え、新潟県民栄誉賞が授与された(受賞日は死没日の2020年12月17日付)[19]。死去から約11か月後の2021年11月23日、「都電落語会7周年記念感謝祭」を兼ねて「偲ぶ会」が都内で行われた[20]。また、『笑点』ではこん平の死去が発表されてから最初の放送の2020年12月27日放送のオープニングでこん平の追悼特集が放送された。
略歴花菱は林家三平一門の定紋

1958年3月 - 中学卒業後、初代林家三平に入門。前座名「こん平」。

1962年11月 - 三遊亭吉生と共に二ツ目昇進。

1965年4月 - 『金曜夜席』(日本テレビ)出演。

1966年5月 - 『笑点』(日本テレビ)に第1回から出演[7]

1969年3月 - 『笑点』初代司会者・7代目立川談志との対立により、こん平含むメンバー全員が降板。

1972年

7月 - 『笑点』復帰。

9月 - 三遊亭圓彌と共に真打昇進[21]


2004年9月 - 『笑点』を休演。12月26日放送分から弟子のたい平が代役として出演。

2005年 - 多発性硬化症と診断されたことを公表。

2006年5月 - 『笑点』40周年を機に大喜利メンバーの座をたい平に譲り、『笑点』を降板。

2007年 - リハビリを続けながらも「第26回林家三平追善興行 林家一門会」にて高座復帰。

2010年3月 - 6年近い闘病・リハビリの日々を中心に半生をつづった著書を講談社から刊行。『笑点』ではたい平が翌月にPRした。

2020年12月17日14時2分 - 誤嚥性肺炎により死去。


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