林原めぐみ
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小学生の時に映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を鑑賞し[15]、キャラクターを演じる「声優」の存在を初めて意識した。以降、声優という職業に関心を持つようになっていった。また、同じくデビュー前である小学生の時には、『銀河鉄道999』関連のイベントに参加して、会場に不在だった池田昌子に代わってメーテル役に挑戦し野沢雅子から称賛されたことがある。後年同じ松本零士作品である『クイーン・エメラルダス』への出演が決まった際には、感動したと語っている[16]

高校時代に進路を決める際に、過去に父親が病気で倒れたことや手に職をつけたいという考えから、当初は現実的な道として国家資格を取得して看護婦(現:看護師)になることを目指した[17]。しかしながら、願書の提出に行った看護学校の受付の憮然とした態度に怒り、受験のために自ら戒めていたマンガを本屋で立ち読みしていた[注 4]ところ、アーツビジョンの声優無料養成オーディションの広告を発見し怒りに任せて応募[18]。約600人からなるオーディションでは成績もさることながら、たまたま持っていたミカンを審査員に配ったことで「ミカンの子」として強烈なインパクトも残し、アーツビジョン付属日本ナレーション演技研究所の第1期生に特待生の1人として合格(ただし林原本人はミカンの件を覚えていない)[19]。こうしたことから、「声優を目指すのであれば、看護学校を卒業して正看護婦[注 5]免許を取得しろ」という両親の条件に従い、看護学校声優養成所を1985年から3年間両立させて通い正看護婦免許を取得した[20]
声優

1986年、看護学校・声優養成所在籍中に『めぞん一刻』第1話の幼稚園児B[8]・近所の女役でアニメデビュー(アフレコ作業およびアニメ登場では近所の女役(声のみ)の方が早いが、多くのプロフィールや本人の発言では幼稚園児B役がデビューとされている[5])。ただし、アニメ以外では『めぞん一刻』よりも前に「徳間書店9月の新刊」に関するCMや「横山やすしが出演する番組」のナレーションを担当していたと発言している[21]。デビュー以降しばらくは、音響監督斯波重治、声優の先輩である神谷明千葉繁などの指導を受けながら多くのモブキャラクターに声をあてて実力をつけていく。養成所時代の講師でもあった千葉繁については、自身のエッセイ『林原めぐみのぜんぶキャラから教わった 今を生き抜く力』の中で、「(めぞん一刻のアフレコでは)隣に座らせていただき、アドバイスも受けながら(中略)OKをいただけました」と、千葉への感謝を綴っている[22]

1988年、『魔神英雄伝ワタル』の忍部ヒミコで自身初のメインキャラクター役を獲得。第1話のアフレコ作業が看護学校の卒業式と重なってしまったために、新人ながらにして抜き録りを行うという出来事もあった。また、この時期は他に3本のレギュラーの仕事(『おそ松くん』『燃える!お兄さん』『いきなりダゴン』)が決まっており、それらをこなした空き時間に看護婦として個人病院でアルバイトをこなす生活を送っていた[注 6][23]。その後、監督や先輩の助言もあり、並行させてきた看護婦のアルバイトを辞めて声優業に専念した。

1989年、『らんま1/2』の女らんまを担当したが、オーディションでは天道あかね役で受けていた[11]。上記の忍部ヒミコも含め、1980年代の終わりには既に主役級のキャラクターを数多く演じるようになっており、以降の人気の足掛かりとなった。

1990年、東京都多摩市サンリオピューロランドが開園。以降、同園その他ほとんどの作品でハローキティの声を4代目声優として担当。そのほか、この年はNHK教育番組『ともだちいっぱい』のソラミ( - 1995年)や国際花と緑の博覧会の花ずきんちゃんなど、マスコットキャラクターの声を多く担当した。ハローキティの声優であることは自分の口からは発表できないらしく、ラジオなどでは「白い猫さんの付き人をしてきました」と言葉を濁している[24]。キティ役は2023年までの33年にわたり担当し、同年をもって降板となった[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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