板垣退助
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^ ベルギーからの直輸入ではなく、米国南北戦争で使用され、戦争終結後に余剰となった武器類が日本へ輸入されたものと言われる。
^ 句読点を追加し、読みにくい箇所は、原文より一部を平仮名に改めた。
^ (書き下し)「土佐少将(山内豊範)へ、徳川慶喜反逆妄挙を助け候条、其の罪、天地に容ちあらざるにつき、讃州高松、豫州松山、同、川之江を始め、これまでの幕領惣てを征伐し、(領地の)歿収これ有るべく仰出され候。宜しく軍威を厳にし、速やかに「追討之功」之旨を(朝廷へ)奏すべく、御沙汰候事。(慶応4年)正月十一日、但し、両國中の幕領の儀は勿論、幕吏卒の領地迄も、惣て取調べ言上これあるべく、かつ人民の鎮撫は、ひとえに王化に服すべきよう致すべく所置候事」
^ 香川県善通寺市碑殿町と三豊市三野町大見の間に位置する峠。現在の国道11号線上にある。
^ 会津藩出身で東京帝国大学総長などを歴任した山川健次郎は、会津藩を評して「兵法武器が時代遅れで、藩主の松平容保幕府への忠誠心は厚かったが、情報に疎く藩主として藩内の多数派だった主戦論を抑えられなかった」ことや、「京都御所警備という朝廷に近い場所で任務に就いていたにも関わらず情報を軽視し、また会津藩における身分制度が他藩より厳しく、武士地主以外の領民の意思を軽視し、戦争準備や軍制改革も遅かった事が敗因」としている。「恭順派の意見を戊辰戦争を始まっても一層排斥し、勤王派で長州などと交渉可能な人材であった神保修理を早々に切腹に追い込み朝廷からの信用を失墜」したこと、「鳥羽・伏見の戦いでの圧倒的敗北となった後も強硬路線を主張した佐幕派こそ、藩主として説得するか処罰するかなどして、時代の変化を理解させるべきだった」と会津藩の無策ぶりを痛烈に批判している。
^ a b 土佐藩兵2個小隊:小笠原謙吉(迅衝隊三番隊)、谷重喜(迅衝隊四番隊)、北村重頼(迅衝隊砲兵隊)(7門)鳥取藩兵6個小隊:佐分利九允銃士隊、天野祐次隊、藤田束隊、宮脇縫殿隊、建部半之丞隊、山国隊(丹波農民有志による義勇兵)、佐分利鉄次郎砲兵隊(2門)、高島藩半小隊(伍長岩本順吉郎指揮)
^ 天然理心流の門人・佐藤彦五郎らを中心とした部隊。
^ a b 伯、凱旋の兵に諭戒す。「戊辰之役、會津陷(お)ちて庄内またその兵を解けり。伯、朝議より凱旋の令を拜し、十月四日、愈々歸還の時に臨て全軍に諭戒して曰く「不肖、退助、推(お)されて一軍の將となり、當初、剣を仗(たづさへ)て諸君と共に故郷を出づるの時、生きて再び還る念慮は毫(すこし)も無かりき。屍(しかばね)を馬革に裹(つゝ)み、骨を原野に曝(さら)すは固(もと)より覺悟の上の事なり。想はせり今日征討の功を了(を)へ、凱旋の機會に接せんとは。これ何等の幸(しあはせ)ぞや。獨(ひと)つ悲(かなし)みに堪(た)へざるは、吾等、戰友同志は露(つゆ)に臥(ふ)し、雨(あめ)に餐(まか)するの餘(あまり)、竟(つひ)に一死大節に殉じ、永(なが)く英魂(えいこん)を此土(こゝ)に留むるに至り、眸(ま)の當(あた)り賊徒平定の快を見て之(これ)を禁闕(きんけつ)に復奏(ふくそう)する事(こと) 能(あた)はざるの一事なり。而(しか)して我等、此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、低徊(あてなき)躊躇(さまよひ)の情(こゝろ)に堪(た)へざるものあり。それを何事(なにごと)ぞや諸君らの中に刻(とき)を競(きそ)ふて南(みなみ)に歸(き)さんと冀(こひねが)ふは。抑(そもそ)も此の殉國諸士の墓標(おくつき)に對(たひ)し心(こゝろ)に恥(は)づ處なき乎(や)」と。而(しか)して軍を二面に割て若松を發し二本松へ向ふに當(あた)り諸隊に令しむるに曰く、「今時(いま)、凱旋奏功の時に臨み、敢(あへ)て惰心を起して王師(みいくさ)を汚す者あらば、忽(たちまち)にして軍法を以て處す。然(さ)れば全軍謹んで之(これ)を戒(いまし)めよ」と。依て九日、二本松を過ぐるに臨(のぞ)みては猶(なほ)一層手厚くして毫釐の過(あやま)ちも莫(なか)らしめたり」[89]
^ 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都與吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている[97]
^ 原文「大野宰次郎氏が馳せ来たつてただちに板垣君にひしと抱きつき、「嗚呼残念なるかな」と一声叫びて落涙雨の如く右の袖を(板垣)君の身体より滴る血潮にひたして泣きしたうさま、熱心哀情が面に溢れて殆ど名状すべからざる有様なり。板垣君はこの哀声を聞かるゝに頭を廻らして静かに曰く「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と。嗚呼、この一言は我々自由家の記念として、以て後世に傳ふべきものなり」[101]
^ 原文「尚?、再び突かんとして君(板垣)と共に倒れしが、君はとくはね起きて、兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ言葉の果てざるに、またもや面部へ切り掛りたり」[102]
^ 原文「君神色自若、毫も平生に異ならず、顧みて諸氏を労りかつ謂て曰く「たとい退助は死すとも自由は死せず。誰がわが党を指して「過激なり」といふ。彼、かえつてこの過激のことを成す」と」[104]
^ 今村は直前まで内務省書記官であり、洋行の随行者として井上馨に選ばれた。洋行中、今村の家には毎月100円の給与が政府から支払われていた[108]
^ 顧客名簿によると、日本人最古のルイ・ヴィトン購入者は1878年鮫島尚信(在仏特命全権公使)、中野健明(一等書記官)であるが、いずれの鞄も現存しない。
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