板垣退助
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 原文「君神色自若、毫も平生に異ならず、顧みて諸氏を労りかつ謂て曰く「たとい退助は死すとも自由は死せず。誰がわが党を指して「過激なり」といふ。彼、かえつてこの過激のことを成す」と」[104]
^ 今村は直前まで内務省書記官であり、洋行の随行者として井上馨に選ばれた。洋行中、今村の家には毎月100円の給与が政府から支払われていた[108]
^ 顧客名簿によると、日本人最古のルイ・ヴィトン購入者は1878年鮫島尚信(在仏特命全権公使)、中野健明(一等書記官)であるが、いずれの鞄も現存しない。
^ 華族となった板垣は衆議院議員の被選挙権を喪失した為、衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。
^ a b c 「(岐阜遭難)當時、板垣氏は官憲に向つて、敢(あえ)て相原を逮捕するなきを望みたるが、其の後、(明治)二十二年(大日本帝國)憲法發布の大典に當つて、國事犯の罪人は大赦令により、悉(ことごと)く放免せられたるに、板垣氏は『相原は罪名國事犯に非(あ)らざるも、均(ひと)しく國事に關する者なれば、大赦の恩命に浴せぬは洵(まこと)に残念の事なり』とて、同年三月十三日附を以て『赦免哀願書』を (明治天皇)陛下に奉呈し、次で相原は同月二十九日、北海道空知集治監より釋放された。相原は五月十一日、東京にて板垣氏に面會を乞ひ、先年の己の行爲に對し大に悔悟陳謝せり。板垣氏は素(もと)より一片の含む所もなく寧(むし)ろ公敵と認めての彼が擧動を『壮(おとこ)なり』とし、『尚(な)ほ將來に於ても余の行動を不臣不逞と認むる事あらば、何時にても再び刃を加ふべし』と説かれ、相原は深く其の宏量に感激し涙を垂れて辭去したり」[128]
^ a b c d 「是れより先き、板垣伯の事を以て出京せられ芝愛宕町の寓居に住せり。依て君(相原)は河野廣中、八木原繁祉両氏の紹介を得て、同(5月)11日伯に面謁せられぬ。其坐に列なりしものは、只八木原氏一人のみ。其時伯は君(相原)に向て「今回、恙なく出獄せられ、退助に於ても恐悦に存じ参らす」との挨拶をしませり。君(相原)一拝して「(明治)15年の事は、今日、更に何とも申す必要なし。只、其後生な爲めに幾度も特赦のことなど御心にかけられたる御厚意の段は幾重にも感謝し参らする」旨を述べられたり。其れより君(相原)は罪人となりて後ち、岐阜にて寫されたる寫眞一葉を取出し「是れ御覧候へ、此れこそ小生が伯を怨み参らせたる後、岐阜にて寫したる撮影にて候よ」と伯の前に差出されたれば、伯は「左様なるか。其時よりは如何にも今は年、老られて見ゆ。退助が知人にて北海道(の監獄)に行きたる者は誰も意外に年老て帰らるゝ事よ。久しき間の御苦労を察し参らする」と云はれたり。君(相原)は又一葉の寫眞を出し是は此頃特赦の後に寫したるものなるが、永き記念の徴までに呈し参らせたし。伯にも御持合せも候はゞ、其思召にも一葉賜はらずや」と申されば、伯は「如何にも予も一葉進じたけれども、兼て寫眞をとらする事の少なくして此處には、一葉だも持合さず。國許にはありたりと覺ゆれば、歸郷の上は必ず贈り参らすべし。都合によりては此地にて寫させ進ずべければ必ず待せ玉へ」と申され重ねて「又退助は今も昔も相異らず常に國家を以て念と成し、自ら國家の忠臣ぞと信じ居りしに、當時、足下は退助を以て社會の公敵と見做し刃を退助が腹に差挾まれたるに、今は相互無事に出會すること人事の變遷も亦奇ならずや」と。古より刺客の事は歴史上に屡々見ゆれども一旦手を下して刃を振ひたる其人と刃を受けたる其人が舊時の事を忘れて再び一堂の上に相會し手を把て談笑するなど、足下と退助との如きは千古多く其比ひを見ず。今日の會話は史家が筆して其中に入るゝとも更に差支へなきことよ。併しながら若(も)し此後退助が行事にして如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば其時こう斬らるゝとも刺さるゝとも思ふが儘に振舞ひめされよ」と改めて申されたり。此時、八木原氏にも亦言葉をはさみて「小生も當時、岐阜の事ありし報を得しときは相原なる者こそ悪き奴なれと思ひしに、今日、其人をば小生が紹介して伯に見えしむること、小生に取りても亦榮あることなり」と云はれぬ。引續き種々の話ありたりしが、君(相原)がもはや暇玉はるべしといはれしとき、伯は起ちて「北地極寒、邊土惨烈(たれど)國の爲めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り奉る」と申されたりと。嗚呼、積年の舊怨一朝にして氷解せり。英雄胸中の磊落なる實に斯くこそあるべけれ」[132]
^ 相原曰く「恐(おそれ)入恥入り申し候。僕(あ)は大人(たいじん)の器(うつわ)たらず、殊更に天下(くに)を語るに足りず。淺學無才の徒ならば、先づ邊鄙(かたいなか)に往(ゆ)きて蟄居(ひきこも)り身を修めんと欲す」と。伯は「予かつて土佐の城下(まちなか)より放逐されたる時、神田と云ふ郷(さと)に在りて民庶(みんしよ)に交り身を修(をさ)めんこと有之(これあり)。君は如何(いか)にせむとすや」と訊くに、相原は「僕(あ)は、先づは無心に土壤(つち)を耕して日の光を感じ、雨の音を聞き、矩(のり)を越へず人(ひと)の爲(ため)、皇國(すめらみくに)の御爲(おんため)に陰乍(かげなが)ら奉公せんと欲す。之(これ)が僕(あ)の贖罪ならんか。願はくば人知らぬ遠き北海道に身を移し、開拓の業(わざ)を以て働かんと欲す」と[131]
^ 佐々木高行『保古飛呂比』7月14日条[136]
^ 当時は「坂」が俗字、「阪」が正字と考えられており、あえて「阪本龍馬」と書かれたもので誤字では無い。
^ 板垣家の家督は孫の守正が相続した。
^ 明治43年(1910年)8月29日施行された『日韓併合条約』を記念し征韓論における功労者として、明治45年(1912年)に制定された『韓国併合記念章制定ノ件』により大正元年(1912年)8月1日賜る
^ 板垣退助が薨去したとき、大正天皇が下賜した誄詞(るいし)による。原文は「軍(いくさ)ニ東征(とうせい)ニ從(したが)ヒ謀(はかりごと)ニ戎幕(じゆうばく)ニ參(さん)シ大政(たいせい)ノ維新(ゐしん)ニ際會(さいくわい)シテ立憲(りつけん)ノ鴻謨(こうぼ)ニ賛襄(さんじやう)シ運籌(うんちゆう)機(き)ニ合(がふ)シ獻猷(けんいう)時(とき)ニ應(おう)ズ精誠(せいせい)公(こう)ニ奉(ほう)シ出處(しゆつしよ)渝(かは)ルコト無(な)シ奄長(えむちやう)逝(ゆく)ヲ聞(き)ク曷(なん)ゾ軫痛(しんつう)ニ勝(た)ヘム茲(ここ)ニ侍臣(じしん)ヲ遣(つか)ハシ賻(ふ)ヲ齎(もた)ラシテ以(もつ)テ弔(てう)セシム。御名御璽(ぎよめいぎよじ)。大正八年七月十八日」[181]
^ 戊辰戦争で失脚した人は多いが、これによって名声を表したのは板垣退助が随一である。ここで言う「死」は字義通りの「戦死」者の事ばかりでは無く、この戦争によって地位を失い、失脚した人をも含む暗喩的な義と解されている[182]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:529 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef