松竹
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2015年の創業120年を機に、チームラボ製作の「継承」と「発展」を表現したもの[8]と、IMAGICAウェスト製作の本物の富士山の映像をバックに「松竹」の文字とロゴと、ロゴの下にローマ字で「SHOCHIKU」の文字を映し出したもの[9] の2種類にリニューアルされたが、IMAGICAウェスト製作のロゴが主に使用されるようになった。ただし、チームラボ制作のロゴも一部作品で使用されている(「あした世界が終わるとしても」など)。

ちなみに1930年代前期から戦中にかけてエンドタイトルの後に松竹マークが数秒間映し出される作品共通の演出が用いられていた。この演出は戦中から終戦期の作品では松竹マークを背景に「終」の文字が映し出されるものに変わり、戦後は用いられなくなった。
撮影所

松竹キネマ蒲田撮影所

下加茂撮影所

大船撮影所

京都撮影所太秦) - 株式会社松竹撮影所

2011年現在、京都撮影所のみ現存している。
松竹洋画
洋画買付

1920年(大正9年)11月1日、松竹キネマ合名社創業と同時に、東京歌舞伎座にて自社作品との併映の形で洋画の興行を開始したのを嚆矢とする。松竹キネマ合名社内には外国部が設置され、洋画の買い付けにあたった。同年12月31日、銀座金春館を洋画専門劇場として開場。生駒雷遊徳川夢声といった一流活弁士を出演させた。翌1921年(大正10年)からは浅草の帝国館を松竹洋画の拠点と定めたが、大作の一部は歌舞伎座や明治座でも興行を行った。

一方、関西松竹合名社の手により、1923年(大正12年)5月17日には道頓堀大阪松竹座が完成。洋画興行と松竹楽劇部(のちのOSK日本歌劇団)による音楽舞踊のアトラクションを採り入れ話題となった。同年9月1日の関東大震災により、松竹キネマ合名社の外国部は大阪に移転。浅草帝国館は復興し、引き続き松竹洋画の本拠としたが、外国映画社の日本支店の多くは京阪神地区に移転していたため、事実上大阪松竹座が基幹劇場となっていた。

1924年(大正13年)、関西松竹合名社は国産映画の量産に力を入れることになり、洋画の輸入買付を手控える。以降同社は外国映画社から提供を受けた作品を配給する事に専念した(フリー・ブッキング制)。
松竹座チェーン

1924年(大正13年)6月、松竹キネマ合名社は新宿武蔵野館と提携。1926年(大正15年)には新宿武蔵野館に代わり目黒キネマが封切館に加わったが、やがて自社作品の拡充のため外国部を廃止して洋画興行および配給から撤退した。

一方、関西松竹合名社は大阪松竹座の成功に伴い、1924年12月31日に新京極の明治座を「京都松竹座」に改称して洋画興行を開始、翌1927年(昭和2年)には新開地の「神戸松竹劇場」を「神戸松竹座」に改称し、また「名古屋末広座」を買収して「名古屋松竹座」とするなどにより、松竹座チェーンが形成された。

1928年(昭和3年)8月、浅草松竹座が開業し、翌1929年(昭和4年)9月には四谷大木戸の「山手劇場」を「新宿松竹座」と改称。松竹座チェーンは東京に進出。また大阪松竹座・浅草松竹座にそれぞれ輸入部を設け、洋画の購入を再開した。
SPチェーン

1931年(昭和6年)5月、松竹座チェーンのライバルであったパラマウント映画チェーンと合併することとなり、松竹パ社興行社を設立。浅草大勝館新宿松竹座有楽町邦楽座・新宿武蔵野館・浅草電氣館・大阪松竹座・京都松竹座・神戸松竹座・大阪公楽座を直営劇場として洋画興行を行なったが、これに11月から日比谷帝国劇場が加わった。

トーキーと字幕の発達により、活動弁士の解雇が相次いだ。
SYチェーン

1933年(昭和8年)5月、パラマウント側が本来の映画配給に専念すべく、興行も含めた松竹パ社興行社から撤退。同年6月からSYコンパニー(松竹洋画興行部)が発足した。浅草常盤座新宿昭和館が新たに加わり、都内の配給網は2系統になった。この後も契約館を増やし、運営母体も1936年(昭和11年)4月には松竹興行から独立して松竹洋画興行社となった。

1937年(昭和12年)4月、松竹キネマが松竹興行を合併し、現在の「松竹株式会社」となったため、松竹洋画興行社も合併に参加して、松竹株式会社の洋画部になった。さらに翌1938年(昭和13年)洋画の新規輸入が許可制になったため、輸入件数が減少し、洋画部は映画部洋画課に、翌1939年(昭和14年)には映画部洋画興行係に機構が縮小されていった。

1940年(昭和15年)、帝国劇場を失い、洋画購入件数も減少するが、却って希少価値を生んだため興行成績は良好であった。しかし1942年(昭和17年)4月に戦時統制に伴う「社団法人映画配給社」が設立され、松竹の洋画興行はここで一旦終止符が打たれた。

1946年(昭和21年)、占領軍により設置された「セントラル映画社」から、東宝と共に洋画興行を引き受けて復活。セントラル映画社との交渉がこじれ一旦打ち切られるが、翌1947年(昭和22年)、松竹保善社の名で再契約し、「浅草ロキシー映画劇場」(旧金龍館)で洋画興行を行い、同館内に「ロキシー興行社」を設置して洋画興行を復活させた。1949年(昭和24年)3月、接収されていた「有楽町邦楽座」が「ピカデリー劇場」として返還されたのを機に、ロキシー興行社を解消して松竹本社内に洋画係を復活。1950年(昭和25年)に洋画配給課が設置され、1927年(昭和2年)以来(※)の洋画配給を復活させた(※松竹キネマ時代から数える)。

1951年(昭和26年)11月、ユナイテッド・アーティスツ社(ユナイト映画)と提携。興行・配給成績共に洋画界の覇権を握る。配給部門は1955年(昭和30年)に外画部、1958年(昭和33年)に外国部に改められると共に業容を拡大した。

1959年(昭和34年)ユナイト社との提携を解消。別途セレクト・インターナショナル映画社と合弁で「松竹セレクト国際映画」を設立して、洋画配給部門を独立させた。しかし、翌1960年(昭和35年)には基幹劇場の築地・松竹セントラル劇場等数館が日本映画の上映館に転換したことにより、8月上旬よりSYチェーンの番組編成権が東宝に移行[10]1961年(昭和36年)12月8日松竹、東宝が京浜地区洋画興行における両社提携とそれに伴うTY(東宝洋画系)、SY(松竹洋画系)両チェーンの解体、拡大強化を共同発表した[11]ことで「SYチェーン」は事実上崩壊し、全国をカバーする洋画興行はすべて東宝が握る事になった。
STチェーン

1962年(昭和37年)、松竹セレクト国際映画はセレクト側が撤退したため、松竹国際映画に改称。しかしながら依然として洋画配給としては弱体であったため、映配株式会社と合併することとなり、同年10月、松竹映配が発足。一方の興行チェーンも同年9月に東急文化会館と全面提携[12]。配給面でも翌1963年1月9日に同社と提携することで東急との繋がりが生じ[13]1965年(昭和40年)2月27日独自の興行チェーンを復活。「松竹・東急チェーン」(STチェーン)が発足した[14]。なお、東急との関係で東映洋画系もこれに含まれることがある。

一方、買付映画の不振により松竹映配の業績は悪化。1973年(昭和48年)8月に解散することとなり、受け皿会社として同年9月に富士映画を発足。1983年(昭和58年)、松竹富士に改称したが、これも1999年(平成11年)に合理化のため解散、配給部門としては長期低迷が続いている。現在、松竹の洋画配給は本社映像本部が行っている。
映画館
2011年3月までの直営映画館

(以下の映画館シネコンはいずれも2011年3月から松竹マルチプレックスシアターズが運営。)

丸の内ピカデリー(3スクリーン)

東劇

新宿ピカデリー(10スクリーン)

MOVIX京都(12スクリーン)

神戸国際松竹(4スクリーン)

子会社経営

MOVIXシネマコンプレックス。京都を除く全国21箇所)

共同経営

札幌シネマフロンティア(12スクリーン中4スクリーン。東宝、ティ・ジョイとの共同事業。松竹遊楽館、札幌東映劇場にあった松竹東急系、東映系劇場の後継映画館。)

横浜ブルク13(ティ・ジョイ、東急レクリエーションとの共同事業)

ミッドランドスクエアシネマ(7スクリーン中3スクリーン。中日本興業との共同事業)

なんばパークスシネマ(11スクリーン中6スクリーン。


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