松竹
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松竹株式会社(しょうちく : Shochiku Co.,Ltd.[3])は、日本映画演劇の制作、興行、配給を手掛ける日本の企業東宝東映と並ぶ日本のメジャー映画会社「御三家」のひとつ。
概要

演劇の興行会社として創業し、その後映画の配給や制作にも進出した。

映画については戦前より“松竹大船調”と呼ばれるホームドラマ人情喜劇を得意とし、東宝のサラリーマン喜劇、特撮、東映の時代劇、ヤクザ映画、日活のアクション映画、青春映画などとともに各大手会社のカラーを鮮明にした日本映画全盛期を担った。60年代より専属俳優よりはテレビ等で人気の出たスターを迎える傾向が強くなり、その一人である渥美清70年代?80年代にかけて、ほとんどが同社の年間興行成績トップを独占し続けるという『男はつらいよ』シリーズで、外部俳優ながらも同社の屋台骨を支えた。彼の死(1996年)後3年弱で松竹は邦画興行ブロックを停止、翌年には大船撮影所も閉鎖することになる。

祖業である演劇・舞台興行においては、東京に2ヶ所(歌舞伎座新橋演舞場)、関西に2ヶ所(京都南座大阪松竹座)の4ヶ所の劇場を保有。歌舞伎興行をほぼ独占的に扱う他、新派松竹新喜劇も手掛けている。また傘下に持つ松竹芸能では、主に関西で「角座」での演芸公演を行っており、吉本興業と並ぶ上方演芸・大阪芸能界の主要事務所となっている。

第二次世界大戦前の1935年(昭和10年)、松竹は吉本興業との間に紳士協定を締結。関西において松竹は一切演芸界に手を出さない。その代わりに吉本は外の会社に所属演芸師を出演させたり、他会社に投資したりしないという取り決めがなされ、松竹は漫才などの演芸部門から手を引いた時期がある。しかし1939年(昭和14年)に吉本興業の林正之助が東宝の経営陣に迎えられ、所属芸人を東宝映画に出演させ始めた。松竹は協定が破られたとして演芸部を新設して対抗。折から新興キネマによる吉本所属芸人の大量引き抜きもあり、業界内は所属先をめぐり大混乱となった[4]。その後、各社間の手打ちが行われたが、松竹は会社として演芸部門についても維持し続けることとなった。

文楽(人形浄瑠璃)や歌劇松竹歌劇団、大阪松竹歌劇団(現在のOSK日本歌劇団))、直営の演芸(浅草松竹演芸場、道頓堀角座、神戸松竹座等)から相撲興行やプロ野球セ・リーグ加盟の松竹ロビンス)、ボウリングアイススケートリンクの運営等幅広い活動を行い、一時は明治期からのお雇い外国人アウグスト・ユンケルを指揮者として松竹交響楽団なる本格的なオーケストラまで所有していた(戦時中は「大東亜交響楽団」と改称したが戦後に自然消滅)。1995年には創立100年事業の一環として松竹大船撮影所の敷地内に「鎌倉シネマワールド」なるテーマパークを開業させたが、不入りでわずか3年で閉鎖に至った。

また、メディア対策として、東宝や大映(のちの角川書店)等と共にフジテレビジョン(フジテレビ)の会社設立に参加(1959年開局)。なお、現在はフジテレビ旧会社法人の後身に当たるフジ・メディア・ホールディングス株式の殆どを放出している反面、松竹大株主の10位以内にTBSテレビの名が連なる(後にTBS〈旧東京放送〉旧会社法人の後身に当たるTBSホールディングスと資本業務提携)など放送局との関係に変化が見られる(フジ・メディア・ホールディングスは認定放送持株会社である)。一方では通信衛星を利用した自社製作の番組(映画、テレビドラマ劇場中継等)を中心に流す「衛星劇場」「ホームドラマチャンネル」「BS松竹東急」等を立ち上げている。

2005年創業110年を記念した女優発掘オーディション松竹STAR GATE歌舞伎座で開催。
沿革

1895年 大谷竹次郎が京都阪井座を買収し、その興行主となる(松竹ではこれを創業起源としている)。

1902年 大谷竹次郎が兄・白井松次郎と共に、松竹(まつたけ)合名会社を設立する[† 1]

1912年9月 「松竹女優養成所」を作り、女優の募集を開始。1期生に東愛子常盤操子、和歌浦糸子、富士野蔦枝、住の江蘭子、可知喜代子、伊達京子、河原月子、渡君江、[小坂きみ子など20名。

1920年2月 松竹キネマ合名会社を設立。映画製作を開始。

1920年11月 帝国活動写真株式会社を設立する。

1921年 帝国活動写真株式会社を松竹キネマ株式会社と改称し、同時に松竹キネマ合名会社を合併する。

1923年5月17日 大阪松竹座開場。

1925年 現在の丸の内ピカデリーの前身となる『邦楽座』を開場。

1930年3月 東京劇場開場。

1931年 日本で初めての本格的トーキーマダムと女房』を上映する。

1937年 松竹キネマと松竹興行(ここまで読みは共に「まつたけ」)を統合し、松竹(しょうちく)株式会社を設立する。

1949年 東京証券取引所大阪証券取引所名古屋証券取引所福岡証券取引所上場。

1950年 札幌証券取引所上場。

1951年 日本初のカラー映画カルメン故郷に帰る』を上映する。

1956年9月15日 東京都中央区築地に本社ビルとなる松竹会館完成。映画館『松竹セントラル』開業。

1984年10月6日 有楽町マリオン9階に丸の内ピカデリーが2館体制となって移転オープン。

1987年10月3日 有楽町マリオン新館5階に丸の内松竹(現:丸の内ピカデリー ドルビーシネマ)がオープン。

1993年 CS放送局の衛星劇場を開局。

1995年 鎌倉シネマワールドを開業。

1997年 松竹マルチプレックスシアターズによるシネマコンプレックス「MOVIX」展開開始。当時専務の職についていた奥山和由によりシネマジャパネスクプロジェクトが開始。衛星劇場のチャンネル名が同名称に変更される。

1998年1月 奥山融社長と奥山和由専務が取締役会で解任され、松竹から事実上追放となる。シネマジャパネスクプロジェクトが終焉。10月1日に衛星劇場に名称が戻る。12月15日 鎌倉シネマワールドを閉鎖。

1999年 松竹会館の閉鎖・解体に伴い、本社機能を東劇ビル内に移転する。
邦画興行におけるブロック・ブッキング体制を廃止、洋画を含めたフリー・ブッキング興行に移行する。

2000年6月 大船撮影所を閉鎖し敷地を鎌倉女子大学に売却。


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