松竹大船撮影所
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6月26日に閉所式が開催され、近隣住民も含め約700人が参加した[18]鈴木清順三國連太郎丹波哲郎小山明子らが出席し、倍賞千恵子があいさつをした[18]。式典の一環で、撮影所に隣接する鎌倉芸術館ホールにて、蒲田撮影所からの引越し映像や松竹映画約40本のダイジェストを含めた「大船映画総集編」が上映された[18]。2000年7月にはNHKで『十五才 学校IV』のスタッフを追ったドキュメンタリー「さよなら映画のふるさと 大船撮影所」が放送された[19]。撮影所での総作成本数は1,495本であった[20]

『男はつらいよ』終了後の松竹の主力映画だった『釣りバカ日誌』は東映東京撮影所(東京都練馬区)で撮影されていた。

撮影所の閉鎖後、江東区新木場に約1万平方メートルの用地を確保し[21]、新スタジオを建設する計画があったが、頓挫している(ネガ・プリント倉庫のみが完成した)[注釈 1]

現在、松竹大船撮影所があったことを示すものは、「松竹通り」という通りの名前と、イトーヨーカドー大船店すぐ近くの「松竹前」という交差点名・バス停名・「松竹前町内会」、及び砂押川に架かる「松竹大通橋」「松竹第二号橋」などの橋名だけである。

撮影所のプロダクション機能は、松竹本社内に設立された「映像製作部・新撮影所準備室」を経て、「松竹撮影所株式会社」と、松竹本社内の「映像企画部・演出グループ」に分離されている。
年表

1934年(昭和9年):大船で地鎮祭、松竹映画都市株式会社創立
[22]

1936年(昭和11年):大船撮影所開所、敷地3万坪[20]城戸四郎所長[20][22]

1945年(昭和20年):敗戦。従業員組合結成[20][22]

1946年(昭和21年):第3、第4ステージ焼失[20][22]

1952年(昭和27年):1月16日未明[23]の火災により、事務所本館が全焼・焼失[22]

1955年(昭和30年):特撮ステージ完成[22]

1962年(昭和37年):定年制切り下げ(55歳)反対[22]スト。292名退社[20]

1963年(昭和38年):第9、10ステージ完成[22]

1966年(昭和41年):合理化反対闘争[22]。162名退社[20]

1976年(昭和51年):撮影所合理化[20]へ、機構改革[22]。6月、26名1年間の自宅待機[24]

1977年(昭和52年):大船撮影所を分離、松竹映像(株)(4月7日設立[25])となる[20][22]

1981年(昭和56年):6月、大船ショッピングセンターオープン[20][22]

1988年(昭和63年):4月8日[25]、(株)大船撮影所設立[22]

1991年(平成3年):6月、松竹映像(株)は(株)大船撮影所に移行。プロデューサーは本社映画制作部へ移動して企画・製作を一本化[24]

1993年(平成5年):10月、鎌倉芸術館開館[20][22]

1995年(平成7年):10月10日、鎌倉シネマワールドオープン[20][22]

1996年(平成8年):8月13日、撮影所第9ステージで「渥美清(4日死去)さんお別れ会」[26]

1998年(平成10年):12月16日、鎌倉シネマワールド閉鎖[20][22]

1999年(平成11年):大船撮影所敷地を鎌倉女子大学に全面売却[20][22]。10月27日発表、12月契約書締結[27]

2000年(平成12年):6月30日、大船撮影所閉鎖[20][22]。10月31日、(株)大船撮影所解散[25]

2003年(平成15年):4月、鎌倉女子大学大船キャンパス開校[28]

大船調

撮影所長の城戸四郎は「松竹大船調」という独特のスタイルを大船で確立した[5][16]。かつて俳優といえば男優のことだったが、城戸は邦画界で初めてホームドラマに欠かせない女優を起用し、「大船調」の素地となった[16]。また、制作費をかけたくない木戸は、費用のかさむロケを避けてセット撮影を優先した。このことが、ホームドラマや喜劇のつくりやすさにつながった[16]。大船調の代表的な作品として、「東京物語」など一連の小津安二郎作品や「男はつらいよ」「喜びも悲しみも幾歳月」などがあげられる[16]


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