松田聖子
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ゴールデンタイムの平均視聴率は34.9%(ビデオリサーチ・関東地区)を記録した[26]。2日後の6月26日の『夜のヒットスタジオ』では司会の芳村真理が、出演者の郷ひろみに「聖子ちゃん、きれいだったわよ」と言い、郷が「そう…… よかった」とだけ応じる場面があった[26]。その後に郷は「ハリウッド・スキャンダル」と「哀愁のカサブランカ」を熱唱した(「哀愁のカサブランカ」の歌に合わせて、聖子との共演シーンが流される演出がなされた)[26]

妊娠・出産の準備のため年内での歌手活動休止を発表。年末の『第36回NHK紅白歌合戦』を最後に音楽番組への出演が途切れた。結婚以前のインタビューなどでは、自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫となった神田正輝が「自由に働けば良い」と復帰を容認していた事もあり、ファンの期待に応える形で歌手業を続ける選択をした。

1986年10月1日、長女の沙也加を出産。ワイドショーなどのメディアは、退院の様子や娘を抱いてインタビューに応える場面など一挙手一投足を報じた。同年6月、妊娠中にレコーディングしたアルバム『SUPREME』を発売。自身のアルバム作品で最高の売り上げを記録し、年末の『第28回日本レコード大賞』では「アルバム大賞」を受賞した[27]。同番組で久々のテレビ歌唱を果すと、続けて『第37回NHK紅白歌合戦』にも出場した。

1987年4月発売のシングル「Strawberry Time」で歌手業に本格復帰。出産後も以前と変わらぬスタイルで活躍する様子から「ママドル」という呼称も生まれた。聖子がきっかけで生まれたこの言葉はその後も、かつてアイドルであった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されるようになった。1988年のアルバム『Citron』はデイヴィット・フォスターによるプロデュースで、シングルの「Marrakech?マラケッシュ?」も第1位のヒット作となったが、この曲が『ザ・ベストテン』最後の出演となった[27]
独立 - セルフ・プロデュースへ

1989年6月、サンミュージックとの契約満了を機に同社から独立し、8月に個人事務所「ファンティック」を設立した。この独立に関しては、海外進出を狙うレコード会社側と、それを受け入れない事務所側との方針のズレが原因だと言われている。アメリカ行きを決断した聖子は、育ての親である事務所社長の相澤に連絡を取ろうと何度も電話をかけるが、独立にショックを受けていた相澤が電話に出る事はなく、絶縁状態で別れる事となる[29][30]

11月、27枚目のシングル「Precious Heart」がオリコンチャート2位止まりとなり、連続1位の記録が遂に途絶えた。

1990年、海外進出となるシングル「All the way to Heaven」、「THE RIGHT COMBINATION」、アルバム『Seiko』などを国内外で発売した(1985年にアルバム『SOUND OF MY HEART』で海外進出を目指していたが、芸能活動休止によるプロモーション不足のため中止された)。日本ではあまり報道されていなかったが「THE RIGHT COMBINATION」はカナダで2位とヒットし、結果を残した。11月のシングル「We Are Love」から再び日本に拠点を移して活動。続くシングル「きっと、また逢える…」以降は、作詞だけでなく作曲にも自ら取り組むようになった。1992年のアルバム『1992 Nouvelle Vague』から1998年のアルバム『Forever』まではセルフ・プロデュースが基本となり、全曲の作詞・作曲を自身で行った(作曲の多くは小倉良との共作)。シングルではチャート4位の「きっと、また逢える…」(1992年)、7位の「大切なあなた」(1993年)、12位の「輝いた季節へ旅立とう」(1994年)、5位の「さよならの瞬間」(1996年)などをヒットさせた。

作詞家としては恋愛感情を赤裸々にさらけ出す歌詞、あるいは生き方や気持ちの切り替え方などを含め、非常に前向きな歌詞を書く事が多い。当時の作曲法としては、聖子がイメージしたメロディをピアノや鼻歌などで伝え、共作者の小倉がギターなどで形にするというスタイルであった。「あなたに逢いたくて?Missing You?」のように、同主調平行調、あるいは属調下属調などの近親調への転調をアクセントに使う傾向も見られ、これは小倉の特徴でもある。

1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で6年ぶりに同番組に出場。舞台上に下降したミラーボールの中から登場し会場を沸かせた。翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』では、ピンクのドレスに熊のぬいぐるみを背負うという出立ちで、「青い珊瑚礁」などを含むメドレーを披露してアイドル性の健在ぶりを見せた。

1996年発売の「あなたに逢いたくて?Missing You?/明日へと駆け出してゆこう」が久々にチャート1位となる。自身初のミリオンセラーを記録し、最大のヒット曲(2021年現在)となった。この時期には「私だけの天使?Angel?/あなたのその胸に」(1997年)など、長女・沙也加への母性愛をテーマとした楽曲もいくつか発表した。

1997年1月、神田正輝と離婚した事を公表。翌1998年5月に、6歳年下の歯科医師と2度目の結婚(2000年12月に離婚)。

1999年のアルバム『永遠の少女』では、11年ぶりに松本隆が作詞を担当し、作曲も聖子以外の作家の作品となった。1997年に亡くなった大村雅朗の遺した楽曲「櫻の園」も収録された。歌手活動20周年を迎えた2000年のアルバム『20th Party』からは再び、自身と小倉良の楽曲がメインとなるが、原田真二も制作に加わり、同年のアルバム『LOVE & EMOTION VOL.1』から2004年のアルバム『Sunshine』までは原田が作曲・プロディースを担当した。その間、海外進出第3弾となったアルバム『area62』もアメリカのインディーズレーベルで発売した。

2005年以降は、鳥山雄司プロディースのアルバム『fairy』を経て、2006年の『bless you』で再び小倉とのコンビとなるが、2007年の『Baby's breath』で初めて作詞・作曲を単独で行ったアルバムを発売。それ以降もセルフ・プロデュースのアルバムがメインとなった。

2001年から2005年ごろは、芸能界デビューした娘の神田沙也加音楽番組バラエティ番組でよく共演したり、2005年以降は自身の旧来ファンである著名人とも共演したりした[注釈 6]

2006年、年末のディナーショーにてかつての所属事務所サンミュージック会長の相澤秀禎と17年ぶりに再会。ようやく和解できた喜びから、楽屋に駆けつけた相澤の姿を見て号泣したという。翌2007年には聖子からの提案によりサンミュージックと業務提携している[29][30]

2011年には、女性アーティストからの楽曲提供は尾崎亜美以来26年ぶりとなる、竹内まりや作詞・作曲のシングル「特別な恋人」がオリコン14位となった。2012年6月に、同世代の大学准教授(歯科医)と3度目の結婚。2015年には、デビュー35周年記念のシングルとして「時間の国のアリス」以来31年ぶりに松本隆と呉田軽穂(松任谷由実)のコンビによる「永遠のもっと果てまで/惑星になりたい」が発売されてチャート11位となった。2016年にはYOSHIKI作詞・作曲のシングル「薔薇のように咲いて 桜のように散って」がチャート6位のヒットとなった。


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