松田聖子
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8月には2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で、『ザ・ベストテン』に第8位で初ランクした[7]。「青い珊瑚礁」では編曲に大村雅朗を初めて起用し、以後大村は同郷の聖子を長年支えることになる。

9月には「青い珊瑚礁」で『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得(オリコンチャートでは最高第2位)。2週連続1位となった9月25日の放送では、「さよならの向う側」で10位にランクインした山口百恵と初共演、握手をし激励の言葉を受けた。このシーンは70年代80年代を代表するアイドルの最初で最後の共演となった。同年10月発売の3枚目のシングル「風は秋色」で初めてオリコン第1位を獲得。年末の『第22回日本レコード大賞』では「青い珊瑚礁」で新人賞を受賞。『第31回NHK紅白歌合戦』にもデビュー1年目で初出場した[7]

伸びのある透き通った歌声と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい振る舞いによって、その人気はうなぎ登りとなった。セミロングのふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「聖子ちゃんカット」と呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した[7]

楽曲では、初期の三浦徳子のリゾート感あふれる詞と小田裕一郎による西海岸風のサウンドに始まり、大村雅朗等のシティポップス的なアレンジが彩りを添えた。2年目にはチューリップのリーダーである財津和夫を起用。さらに作詞に松本隆を迎え、「聖子プロジェクト」とも呼ばれる若松・松本・大村を中心とした強力なプロデュース体制が成立する。松本や大村は交流のある大瀧詠一松任谷由実細野晴臣佐野元春尾崎亜美大江千里といったニューミュージック系のミュージシャンを次々とシングルの作曲に起用していった。アルバムにおいても杉真理来生たかお原田真二甲斐祥弘南佳孝林哲司矢野顕子玉置浩二等、錚々たる顔ぶれが質の高い楽曲を多数提供した。アルバムには基本的に歌詞カードのみが封入、一曲ごとに全ての楽器演奏者の名前がクレジットされるという、アイドルでは珍しい楽曲重視のプロデュースが見られ、山口百恵ですら数万枚であったオリジナルアルバムのセールスをシングル並みの数十万枚に引き上げ、当時のアイドルのアルバムとしては異例のセールスを記録していく。

デビュー間もない頃の声量のある力強い声質は酷使によりややハスキーな色合いを帯びていったが、それが大人の魅力となり「赤いスイートピー」、「SWEET MEMORIES」などの代表曲が生まれた。元々B面であった「SWEET MEMORIES」は、ペンギンのキャラクターが印象的なサントリー缶ビールのCM曲であった。使われたのは英語詞の部分で、当初は「歌・松田聖子」のクレジット表記も無かった為、「誰が歌っているのか?」という問い合わせや反響が相次いだ。これは本人がCMに出演しなくても歌声だけで注目を集めたデビュー曲の「裸足の季節」と通じるものがある。その後、歌番組でこの曲が歌われるようになると名曲として広く知れ渡り、多くのアーティストにカバーされるほどの代表曲となった。

こうして作り出された恵まれた楽曲を歌いこなし、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位を獲得、山口百恵から松田聖子へとアイドルの頂点は引き継がれた[26][27]

社長の相澤は、ファンが欲しているものをその場で判断してそれにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が松田聖子という歌手を完成させたと語っている[23]
結婚・出産 - ママドルへ

1985年1月、交際していた郷ひろみ結婚間近と噂されていた)との破局を発表し、単独で記者会見を行う。「生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った」と泣きながら語る一幕は話題となった[26][注釈 5]。その会見からわずか数日後の2月には、映画『カリブ・愛のシンフォニー』で共演していた神田正輝が聖子との交際を認め、4月に婚約を発表。6月に行われた結婚式は、石原プロの俳優陣を含む豪華な面々が参列し、式場周りには多くの報道陣が詰めかけた。続く披露宴では、スター同士のカップルという事で多くの芸能人が招待される非常に派手な催しとなった[26][28]司会を務めたのは当時日本テレビアナウンサー徳光和夫。結婚式・披露宴の独占放送権を獲得したテレビ朝日は、約10時間に亘りこの模様を放送。ゴールデンタイムの平均視聴率は34.9%(ビデオリサーチ・関東地区)を記録した[26]。2日後の6月26日の『夜のヒットスタジオ』では司会の芳村真理が、出演者の郷ひろみに「聖子ちゃん、きれいだったわよ」と言い、郷が「そう…… よかった」とだけ応じる場面があった[26]。その後に郷は「ハリウッド・スキャンダル」と「哀愁のカサブランカ」を熱唱した(「哀愁のカサブランカ」の歌に合わせて、聖子との共演シーンが流される演出がなされた)[26]

妊娠・出産の準備のため年内での歌手活動休止を発表。年末の『第36回NHK紅白歌合戦』を最後に音楽番組への出演が途切れた。結婚以前のインタビューなどでは、自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫となった神田正輝が「自由に働けば良い」と復帰を容認していた事もあり、ファンの期待に応える形で歌手業を続ける選択をした。

1986年10月1日、長女の沙也加を出産。ワイドショーなどのメディアは、退院の様子や娘を抱いてインタビューに応える場面など一挙手一投足を報じた。同年6月、妊娠中にレコーディングしたアルバム『SUPREME』を発売。自身のアルバム作品で最高の売り上げを記録し、年末の『第28回日本レコード大賞』では「アルバム大賞」を受賞した[27]。同番組で久々のテレビ歌唱を果すと、続けて『第37回NHK紅白歌合戦』にも出場した。

1987年4月発売のシングル「Strawberry Time」で歌手業に本格復帰。出産後も以前と変わらぬスタイルで活躍する様子から「ママドル」という呼称も生まれた。聖子がきっかけで生まれたこの言葉はその後も、かつてアイドルであった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されるようになった。1988年のアルバム『Citron』はデイヴィット・フォスターによるプロデュースで、シングルの「Marrakech?マラケッシュ?」も第1位のヒット作となったが、この曲が『ザ・ベストテン』最後の出演となった[27]
独立 - セルフ・プロデュースへ

1989年6月、サンミュージックとの契約満了を機に同社から独立し、8月に個人事務所「ファンティック」を設立した。この独立に関しては、海外進出を狙うレコード会社側と、それを受け入れない事務所側との方針のズレが原因だと言われている。アメリカ行きを決断した聖子は、育ての親である事務所社長の相澤に連絡を取ろうと何度も電話をかけるが、独立にショックを受けていた相澤が電話に出る事はなく、絶縁状態で別れる事となる[29][30]

11月、27枚目のシングル「Precious Heart」がオリコンチャート2位止まりとなり、連続1位の記録が遂に途絶えた。


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