松田聖子
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ちなみに「新田明子」は中山圭子の為に考えられてボツになったものであった(中山はそれを法子に告げていなかった)[14]。当初は「新田明子」でほぼ決定の状態であったが、あまりパッとしない印象であり本人も気に入らなかったため、社長の相澤が当時凝っていたという姓名判断に委ねた結果、沖紘子の名付けで「松田聖子」に決まったという説もある。

1979年10月、日本テレビ系ドラマ『おだいじに』のレギュラー出演が決定し、女優デビューする事となる。名前を憶えてもらうため、芸名の「松田聖子」がそのまま役名となった[14]。ドラマ内でサンミュージックの先輩でもある太川陽介とのキスシーンがあったが、聖子にとってはそれがファーストキスであったため、シーンを撮り終えた途端に聖子が布団を被って泣き出し、相手役の太川は複雑な心境になったという。11月、ニッポン放送ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のパーソナリティ「パンチ・ガール」のオーディションに合格し、翌年1月からレギュラー出演開始[14]。この時同番組のスポンサーの平凡パンチからは「スレンダーなので、グラビア映えしない」として一度はノーが出されたが、同番組ディレクターの宮本幸一の強い説得で、平凡パンチの担当部長・編集長とも最後には折れて、同番組への出演が叶ったということがあった[25]。そしてこの頃、歌手デビュー予定のタレントという事で「歌わない歌手 デビュー」と紙面に取り上げられた事がある。

同月、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションを受け、一次審査の面接、二次審査の水着での踊りに合格するが、最終審査のテスト撮影でどうしてもえくぼが出なかったため不合格となる(選ばれたのは、同じく新人タレントの山田由紀子[7]。これ以前にもアイスクリームのCM出演オーディションを受け落選している[7]

1980年1月末、NHK総合レッツゴーヤング』の中のユニット「サンデーズ」のメンバーオーディションを受ける。本来はドラマ『おだいじに』の札幌ロケがこの日まで予定されていたが、1日早く終わったおかげで受ける事ができた。そして翌月、田原俊彦らと共に新メンバーに抜擢される。
歌手デビュー - 1980年代を代表するアイドルへ

注力中の所属アイドルの売り上げ不振に頭を悩ませていた相澤は、聖子が出演不合格となった「エクボ」のCM制作サイドに陳情。それによって何とかコマーシャルソングとしての起用が1980年2月に決定し、4月1日にシングル「裸足の季節」で歌手デビューを果たした[7]。なお、相澤は聖子にビジュアル面を期待しておらず、もっぱら歌だけでやって行こうと考えていた為、出演させなかったとも語っている[23]。上述のような様々な要因が重なり偶然にも、1970年代を代表するアイドル山口百恵の引退という、時代の転換期である1980年にデビューする事となった[7]。デビュー時のキャッチフレーズは「抱きしめたい! ミス・ソニー」。

聖子の歌声はタイアップCMによってテレビで頻繁に流れたものの、当初は顔と名前の浸透度が低く、CMに出演した山田由紀子が歌っていると勘違いする人も多かった。山田と2人で行ったCMイベントのサイン会でも聖子の前には誰も並ばず、「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。それから程なくしてテレビの歌番組などに聖子が登場するようになると、その容姿と声量のある魅力的な声が相まって瞬く間に人気が沸騰した[7]。「エクボ」のCMシリーズではその後も「風は秋色」、「夏の扉」などでも歌唱のみの起用が続いた。テレビCMで流れる聖子の歌声を初めて耳にした作詞家の松本隆(後に聖子の楽曲の作詞を手掛ける事になる)は、「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がした」と直感的に感じたという[7]

デビュー日となる4月1日、日本テレビズームイン!!朝!』に出演し、CBSソニー社員らの声援をバックに告知を行う。同月、NHK『レッツゴーヤング』に「サンデーズ」のメンバーとしてレギュラー出演開始、かつて音楽学校でレッスンを受けた平尾昌晃と共演する。4月末にはフジテレビ夜のヒットスタジオ』に「裸足の季節」で初登場。7月3日TBSザ・ベストテン』にも「スポットライト」コーナーに第11位として仲の良い岩崎良美とともに初登場した。8月には2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で、『ザ・ベストテン』に第8位で初ランクした[7]。「青い珊瑚礁」では編曲に大村雅朗を初めて起用し、以後大村は同郷の聖子を長年支えることになる。

9月には「青い珊瑚礁」で『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得(オリコンチャートでは最高第2位)。2週連続1位となった9月25日の放送では、「さよならの向う側」で10位にランクインした山口百恵と初共演、握手をし激励の言葉を受けた。このシーンは70年代80年代を代表するアイドルの最初で最後の共演となった。同年10月発売の3枚目のシングル「風は秋色」で初めてオリコン第1位を獲得。年末の『第22回日本レコード大賞』では「青い珊瑚礁」で新人賞を受賞。『第31回NHK紅白歌合戦』にもデビュー1年目で初出場した[7]

伸びのある透き通った歌声と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい振る舞いによって、その人気はうなぎ登りとなった。セミロングのふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「聖子ちゃんカット」と呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した[7]

楽曲では、初期の三浦徳子のリゾート感あふれる詞と小田裕一郎による西海岸風のサウンドに始まり、大村雅朗等のシティポップス的なアレンジが彩りを添えた。2年目にはチューリップのリーダーである財津和夫を起用。さらに作詞に松本隆を迎え、「聖子プロジェクト」とも呼ばれる若松・松本・大村を中心とした強力なプロデュース体制が成立する。松本や大村は交流のある大瀧詠一松任谷由実細野晴臣佐野元春尾崎亜美大江千里といったニューミュージック系のミュージシャンを次々とシングルの作曲に起用していった。アルバムにおいても杉真理来生たかお原田真二甲斐祥弘南佳孝林哲司矢野顕子玉置浩二等、錚々たる顔ぶれが質の高い楽曲を多数提供した。アルバムには基本的に歌詞カードのみが封入、一曲ごとに全ての楽器演奏者の名前がクレジットされるという、アイドルでは珍しい楽曲重視のプロデュースが見られ、山口百恵ですら数万枚であったオリジナルアルバムのセールスをシングル並みの数十万枚に引き上げ、当時のアイドルのアルバムとしては異例のセールスを記録していく。

デビュー間もない頃の声量のある力強い声質は酷使によりややハスキーな色合いを帯びていったが、それが大人の魅力となり「赤いスイートピー」、「SWEET MEMORIES」などの代表曲が生まれた。元々B面であった「SWEET MEMORIES」は、ペンギンのキャラクターが印象的なサントリー缶ビールのCM曲であった。使われたのは英語詞の部分で、当初は「歌・松田聖子」のクレジット表記も無かった為、「誰が歌っているのか?」という問い合わせや反響が相次いだ。これは本人がCMに出演しなくても歌声だけで注目を集めたデビュー曲の「裸足の季節」と通じるものがある。その後、歌番組でこの曲が歌われるようになると名曲として広く知れ渡り、多くのアーティストにカバーされるほどの代表曲となった。

こうして作り出された恵まれた楽曲を歌いこなし、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位を獲得、山口百恵から松田聖子へとアイドルの頂点は引き継がれた[26][27]

社長の相澤は、ファンが欲しているものをその場で判断してそれにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が松田聖子という歌手を完成させたと語っている[23]


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