松田聖子
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[6]血液型A型。
概説

日本を代表するアイドル歌手1970年代を代表するアイドルであった山口百恵が引退すると交代するようにデビュー、まもなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、様々な面で日本の大衆文化に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。

1970年代を代表するアイドル山口百恵が引退した年の1980年4月に「裸足の季節」でレコードデビュー。伸びのある歌声で注目され、リリースしたレコードが次々とヒットを記録する1980年代を代表するアイドルとして活動した[7]。類い稀な声質と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿とが相まって人気を獲得し、トレードマークの「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルを模倣した若い女性たちが当時の街中に溢れかえった[7]。後に中森明菜と人気を争うようになり、当時を知るファンの間では音楽番組における順位争いや、「聖子と明菜のどちらが好きか」という議論が頻繁に発生した。

芸能界が「百恵引退後のアイドル像」を模索する中で、百恵の「実人生とアイドル像を限りなく一致させる」方針とは正反対の「ドレスを着飾ったアイドルの原点」を演じるという方向性を取り、実際に衣装や容姿に自身の主張を通していた(『聖子ちゃんカット』も自身が行きつけの美容室で相談しながら作り上げたものである)。聖子のアイドル像は、百恵の徹底した「脱アイドル」以前にあった「アイドルの原点」を表現する事にあり、これが若者の支持を集めたのではないかと評されている。百恵が引退した1980年10月の時点で、デビュー半年後の聖子は既に「ポスト山口百恵」の筆頭として認知されるに至っていた[7][注釈 1]

出版プロデューサーの但馬オサムは「容姿だけでなく歌の表現力でも1980年代のアイドル歌手としては突出したものを持っていた」と評価しており、歌の下手なアイドルでも通用した「かわい子ちゃん歌手」の時代からの転換を象徴していた[8]。声量に関しても特筆すべきものがあり、初期の楽曲の作詞を手掛けた三浦徳子は初めて聖子の歌声を聴いた時を振り返って「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」とコメントしている。また、三浦が「母音をしゃくりあげるような歌い方」と表現する特徴的な歌唱法は同じく初期の楽曲の作曲を手掛けた小田裕一郎から受けたレッスンの影響によるもので、彼の歌い方にそっくりだという[9]

聖子を発掘してプロデュースしたCBS・ソニーディレクターの若松宗雄は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間はなく、レコーディング当日に楽曲を聴いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2?3回デモを聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。若松は聖子の上げた売り上げを惜しみなく有能なスタッフや新技術へと投入し、オリジナルアルバム「Pineapple」は1982年10月1日には世界初のCDとして発売された50タイトルの中に名を連ねている。1983年発売のアルバム「ユートピア」からデジタルレコーディングが行われるようになり、デジタルレコーディングの先駆者となった。マルチトラック・レコーダーには後にCDマスタリングのスタンダードとなるソニーのPCM-3324が導入され、CD時代を見据えた準備を他のアイドルよりも数年早く開始していた。1983年には過去作品も含めて音質にこだわったCD、マスターサウンドLP、メタルマスターCTが発売された。

楽曲の記録としては、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート第1位を獲得した[10]。これはピンク・レディーが当時持っていた9曲連続を大幅に塗り替える記録であり、1980年代当時「アイドル四天王」と呼ばれた南野陽子中山美穂浅香唯工藤静香の1位獲得記録の合計を上回るものであった[11][注釈 2]。この記録は、CDバブルを迎えた2000年に破られるまで11年10か月間保持していた。

デビュー初期の曲は、主として三浦徳子の作詞・小田裕一郎の作曲によるものであったが、6枚目のシングル「白いパラソル」以降は作詞に松本隆が起用され(19枚目のシングル『ハートのイアリング』まで)、作曲家の選択も含め松本のプロデュース色が濃くなっていった。編曲は2枚目のシングル「青い珊瑚礁」から大村雅朗が主体となり、アルバム曲を含めた多くの楽曲を担当した[4]。1980年代の作曲家は財津和夫松任谷由実(『呉田軽穂』名義)、細野晴臣などニューミュージック系の作家が多かった。こうしたシンガーソングライターの起用について若松は、かつて自身が担当したキャンディーズ吉田拓郎コラボの成功が念頭にあり[12]、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という判断からであったと述べている[12]

私生活では、デビュー前から憧れの存在であり数年にわたる交際の末に結婚間近とまで言われていた郷ひろみ破局。その後、すぐに映画で共演した神田正輝との交際が公となり、1985年6月に結婚。翌1986年10月1日に長女・沙也加を出産するなど、話題は尽きなかった。母となり大きな転換期を経た後も変わらずアイドル歌手としてヒットを続けたため、「ママドル」という呼称も生まれた。

1980年代から作詞や作曲を行うことが時折あり、「小さなラブソング」の作詞に始まり、「Canary」、「時間旅行」、「シェルブールは霧雨」などを作曲。この経験が後のセルフプロデュースにつながっていき、1990年代以降は作詞・作曲やアルバムのプロデュースに自ら取り組むシンガーソングライターとしての活動を展開していった。その一環として海外での音楽活動も意欲的に行っており、1990年にSeiko名義で全米デビューを果たした後も日本でのポップス路線と並行してたびたびリリースを続けていた。1996年には、小倉良と共作した「あなたに逢いたくて?Missing You?」が初のミリオンセラーを記録し、自身最大のヒット曲(2022年現在)となった。歌手として円熟味が増した近年では、海外進出時に出会った著名な音楽家との交流を元に全編英語詞のジャズアルバム(『SEIKO JAZZ』、『SEIKO JAZZ 2』)をリリースするなど、新たな一面も見せている。

デビューから40年あまり、過激なプライベート報道や様々なバッシングに遭いながらもなお「アイドル」と呼ばれ続けるその活動に敬意を表して「永遠のアイドル」と称されることもあり、『女性自身』や『婦人公論』その他の雑誌、TVなどのメディアにおいて「生き方に憧れる女性有名人」「輝いている女性有名人」「スターだと思う有名人」「永遠のアイドルだと思う有名人」などの好感度アンケートでは常に上位にランクインした。2007年4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、NHKスペシャル『松田聖子 女性の時代の物語』が放送され、放送後も『朝日新聞』の天声人語(4月15日付)にもその話題が取り上げられた。大宅壮一文庫創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2020年10月)となっており、2位の小沢一郎らを抑えて「日本の雑誌に最も頻繁に登場した著名人」とされている[13]
経歴
生い立ち

1962年3月10日福岡県三潴郡筑邦町荒木(現在の久留米市荒木町)に、同県柳川市出身で社会保険事務所に勤める公務員厚生省事務官)の父親と、同県八女市庄屋出身の母親の長女として、母方の伯母が院長夫人であった、高良台病院で生まれた。難産で生まれた時には、仮死状態であった[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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