松田優作
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下積み時代、「俺が売れないのは一重瞼だからだ」とコンプレックスをもらしており、後に瞼を二重に整形している[26]。金銭面で困窮していた時期であったが何とか手術費用を捻出した。当時の二重瞼の手術の主流は切開法であり、術後約1週間で抜糸を行うが「費用がまた何万円もかかるのではないか…」と懸念した松田は抜糸予定日に病院へは行かず、自宅で鏡を見ながら裁縫用の小さなハサミを用いて抜糸をしたと語っている。その際、無理に糸を引き抜き、消毒も十分にしなかったため後々まで跡が残った。実際は抜糸までが手術費用に含まれており、再診でかかる費用はせいぜい消毒代と化膿止めの薬代、数千円程度であったと後に知り、後悔したと言う。

松田美由紀は松田を「普段のファッションには無頓着で、放っておいたら何を着だすか分からない程だった」と言う。近視で、普段掛けていた眼鏡も上部が黒縁のいわゆるオヤジ眼鏡だった。

『太陽にほえろ!』出演当時は運転免許を有していなかった為、車の運転場面は全て代役である。勝野洋下川辰平も同様であった。後の『探偵物語1979年(昭和54年)ではベスパに乗っているが、自動二輪免許は所有していた。さらに後には4輪免許も取得 (文学座時代から親しかった重松収によれば、普通自動車免許は、『ブラック・レイン』の撮影がすべて終わり、帰国したのと同時に取得[27]。松田優作本人が自動車の運転をしている作品は、遺作「華麗なる追跡 THE CHASER」となる)。ドラマでベスパを使用することを助言したのは、友人の岩城滉一。当時の松田は中型自動二輪免許(現:普通二輪)を取得したばかりで、プライベートではホンダGL400に乗っていたが岩城の「それダサイよ」の一言で、ベスパを使う決心をしたと云われている[28]。そのベスパは後に松田の私物になり、松田の没後も長年、自宅の地下室に安置されていた。2023年11月にベスパは、探偵物語の監督を務めた村川透の生家に開設された山形県村山市の私設多目的ホール「アクトザールM.」の展示室に移したことが妻の松田美由紀のインスタグラムにて報告されている[29]

角川春樹によれば、要領が良い反面、臆病な一面があり、映画『人間の証明』のニューヨークでのロケ撮影中に傷害沙汰を起こし、角川が示しをつけるためホテルに呼び出した際、入室直後に「何をされても結構です」と土下座を噛まし、タイミングの可笑しさで角川の怒りを治めてしまったが、その後の飲み会でダウンタウンに行った際、黒人しかいない店に入ると終始怯えた表情を取り、「怖いのか?」と角川が訊くと、「いえ」と強張りながら飲み続けていたという。また、角川とは毎年、赤坂フグ料理屋で2人だけの忘年会を行い、最後の〆にフグ雑炊を松田が、自分の手で作るのが恒例だったという[30]

ロバート・デ・ニーロは映画『ブラック・レイン』での松田の演技を絶賛、共演したいと松田にオファーを出したが、亡くなった事を知り落胆したという話がある。

一日100本以上のヘビースモーカーであった。しかし、尊敬する渡哲也が「大都会PARTII」の撮影で出番以外禁煙を始めた事を受け、優作自身は禁煙まで行かなかったが一日15本まで減らしたという。

1980年(昭和55年)4月29日放送の『徹子の部屋』に出演した際は、飲酒、喫煙しながらトークをおこなった[31](もっとも、当時同番組において同様の例は他のゲストでも多く見られた)。

長らくCM出演を固辞していた松田初めてのCMは、1982年麒麟麦酒「キリンライトビール」が最初だが[32]、1976年の『曽根崎心中』以降、役者付いていた宇崎竜童原田芳雄と親しくなり、弟分の松田とも親しくなっていた1982年に大手広告代理店から、宇崎・原田・松田の3人が共演するCMを作りたいと依頼された[32]。今でこそ知名度の高いタレントが複数登場するCMは当たり前だが、当時の業界の常識は、知名度が高いタレントが単独で登場するからこそインパクトが強いと考えられていて、複数の芸能人が共演することはなく、その常識を覆すCMであった[32]。松田も原田芳雄もCM出演はそれまでなく、麒麟麦酒がアメリカではシェア50%以上を占める「ライトビール」がこれからは日本でも主流となるだろうと先読みし、思い切ったCMをやりたいと考案したものであった[32]。しかし宇崎に送られて来た絵コンテを見ると『8時だョ!全員集合』のようなコントそのものの内容[32]。演出サイドが意外性を狙い過ぎているのは分かったが、原田と松田がこれに同意するとは思えないし、まあ企画会議の席上で異を唱えればいいか、と宇崎は考えて、原田と松田には連絡しなかった[32]。すると企画会議の前日(当日の)深夜2時過ぎに宇崎宅へ電話があり、松田が地の底から響くような声で「おい!殺すぞ!!」と宇崎に言った。激怒しているときの松田に取り付く島もないことを宇崎も承知しているため、言い分を聞くと、宇崎は絵コンテを承諾したと制作サイドに伝えられており、「明日の企画会議であんたを殺す。それがイヤだったら、屈強なボディガードを3人ほど用意しておくんだな!」と捨て台詞を残し一方的に電話を切った[32]。企画会議では宇崎の無実が明らかになり、松田は何10枚も自分で書いてきた絵コンテを次々と繰り出し熱意のあるプレゼンを展開した。企画会議終了後に松田は宇崎に「オレの誤解でした。本当に失礼なことを言って申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げて謝罪した[32]。同CMは鈴木清順の演出で1982年夏にハワイロケが行われたが、タキシードの衣装が暑すぎて撮影の合間に冷房の効いたロケバスで休んでいた。すると隣のロケバスのカーテンの隙間から熟睡しているプロデューサーの姿が見えた。スタッフにも自分と同じ熱量を求める松田は「あの昼寝野郎…」と呟き怒りを露わにした。この時は何とか収まったが、CM本編の撮影が全て終了し、ポスター撮影の段階になった時、またまた松田が独自案を披露した。これが制作サイドとは正反対の内容で、一からロケハンをやり直さなければならないものだった。
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