松田優作
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1981年泉鏡花原作の文学作品『陽炎座[注釈 5]、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージとは異なる役柄を演じた。また『新・事件 ドクターストップ』以降、『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』とNHKドラマへの出演が続いた。また、82年の向田邦子ドラマ『春が来た』で桃井かおりと共演した際に、桃井から「ドラマをなめてる」と言われ、大げんかになったこともある[14]

1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督の小池要之助が降板。松田自らがメガホンを取ることとなり、これが初めてで最後の監督作品となった[14][注釈 6]。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である[注釈 7]
病と死去

1988年深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後、遺作ともなったアメリカ映画ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身がに侵されている事を知るが、延命治療を拒み、撮影に挑んだ(妻の松田美由紀によると、癌の診断を信用せず次々に医師を変え、治療に進まなかったため知己の医師に「今は癌ではないが放置すると癌になる」と説得してくれるよう頼んでいたという)。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。

1989年8月頃から腰が痛いと言い始め[3]、10月6日、第3回東京国際映画祭で来日中の『ブラック・レイン』のリドリー・スコット監督に「どうしても挨拶したい」と出席したが[3]、舞台挨拶を断り帰宅[3]。これが公に見せた最後の姿だった[3]。翌10月7日、東京都武蔵野市にある西窪病院 (現在の武蔵野陽和会病院)に入院[3]

1989年11月6日午後6時45分、入院中の西窪病院で膀胱癌の腰部転移により死去。40歳没[注釈 8]。法名は、「天真院釋優道」。墓所は、東京都あきる野市築地本願寺西多摩霊園。所属事務所の後輩で、松田が弟の様に可愛がっていた仲村トオルは松田の遺体の前で「優作さん! 起きてください! 早すぎるよ!!」と泣き叫んだ。葬儀には萩原健一、倍賞美津子らも参列した。萩原健一は妻の松田美由紀の手を取り、涙ながらに弔意を述べていた。
没後

2000年の発表の『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の12位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」でも第12位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優6位となっている[21]

日本郵便が2006年10月10日に発行した特殊切手「日本映画II」(現代の名作)(1980年 - 2000年代公開)は、代表的な日本映画10作品を選定しているが、その1本に松田主演の映画『蘇える金狼』が選ばれた[22]
人物

公称・身長185cmの長身(妻・美由紀証言では実身長183cm)と発表されていたが
石原裕次郎が公称181cmとなっており、183cmでは身長差がないので185cmと発表したとプロデューサーが言っていた。1975年に本人に取材した記事では186cmと述べている[8]。番組ではタフなキャラクター、抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、基本的にアクション・スタント シーンにスタントマンを使うことはなかった(『探偵物語』のバイクジャンプシーンなど、度を越した危険なシーンなどではスタントマンを起用している)。萩原健一と並んで同時代を代表するスターである。

初期のプロフィールには空手2段と書かれていたが、国際空手道連盟・極真会館機関誌には1969年6月20日付、4級合格者として記録されている。同日付では第1回世界大会優勝者・佐藤勝昭と一緒であり最終的な昇級昇段は不明である。

デビュー前の大学生時代にTVドラマ「ワイルド7」にエキストラ出演しており、最終話「スパイダーの最後」でその姿を確認する事が出来る。ゴールド・サタン:山本麟一のボディーガード役で後ろに立っている。

デビュー時はアクションスターとして注目されたが、演出家に対して徹底して食いついて演出面にも追求(カップに注がれた消え物コーヒーについて「なぜ湯気が立っているんだ!」「これは誰が飲むものなんだ!」など)するなど芝居に対して非常に勉強熱心で、個性派俳優として次第に役の幅を広げていった。強烈なカリスマ性をもつ俳優であり、松田の演じるキャラクターや、本人そのものをイメージした格好を真似る若者を産み、また同業者である後輩にも、彼のスタイルを踏襲した俳優(古尾谷雅人又野誠治など)も登場した。

自分の仲間を非常に大事にし、金子正次中村雅俊丸山昇一佐藤蛾次郎萩原流行など優作と親交が深かった多数の友人が優作の伝記で彼の人となりを熱く語っている。


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