松田優作
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同年2月5日、東京地方検察庁傷害容疑で松田を起訴[18]、同年3月10日東京地裁懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける[7]

1976年、東映暴力教室』 (岡本明久監督)により映画復帰を果たす[19]。同作品では安西マリアらと共演した。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、時代劇初主演となる。同年7月25日にはアルバムまつりうた』で歌手デビュー。1977年、刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰した。

1979年には村川透監督角川映画『蘇える金狼』主演。この映画の前には、ハワイへ飛び、射撃場で実弾射撃演習をおこなった[14]。同年、澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。また、映画では推理・ミステリー映画『乱れからくり』 (泡坂妻夫原作、児玉進監督)。同年にはテレビドラマ『探偵物語』に主演。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。
1980年代の活動

1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために10kgの過酷な減量だけでは飽き足らず、奥歯を4本抜き、さらに山籠もりまでしたという[14]1981年黒澤満を信頼し[20]熊谷美由紀と一緒に東映[4]セントラル・アーツに移籍[20]。この後、アクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。また、70年代後半には、サングラスをかけて原田芳雄の模倣、その後、萩原健一の演技をマネするなど、好きな俳優の演技スタイルを取り入れてしまうことは、映画業界でよく知られていた。この時期には音楽活動にも熱中し、ドラマ「探偵物語」では自身の出演場面を減らした回もあった。行きつけの酒場「 ⇒レディ・ジェーン」の店主、大木雄高によれば、ジャズフリー・ジャズや、ピアソラのタンゴなどを好んで聴いていたという。

1981年泉鏡花原作の文学作品『陽炎座[注釈 5]、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージとは異なる役柄を演じた。また『新・事件 ドクターストップ』以降、『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』とNHKドラマへの出演が続いた。また、82年の向田邦子ドラマ『春が来た』で桃井かおりと共演した際に、桃井から「ドラマをなめてる」と言われ、大げんかになったこともある[14]

1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督の小池要之助が降板。松田自らがメガホンを取ることとなり、これが初めてで最後の監督作品となった[14][注釈 6]。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である[注釈 7]
病と死去

1988年深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後、遺作ともなったアメリカ映画ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身がに侵されている事を知るが、延命治療を拒み、撮影に挑んだ(妻の松田美由紀によると、癌の診断を信用せず次々に医師を変え、治療に進まなかったため知己の医師に「今は癌ではないが放置すると癌になる」と説得してくれるよう頼んでいたという)。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。

1989年8月頃から腰が痛いと言い始め[3]、10月6日、第3回東京国際映画祭で来日中の『ブラック・レイン』のリドリー・スコット監督に「どうしても挨拶したい」と出席したが[3]、舞台挨拶を断り帰宅[3]。これが公に見せた最後の姿だった[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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