松沢呉一
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この他、北海道生まれとする文献[3]もあり、『日外アソシエーツ』人物情報では愛知県出身[注 1]となっている。松沢の著書によく記載される、「父親がサーカス団に勤務していたため、中学までは各地を転々とする。得意なのは一輪車乗り」[4]とするプロフィールも真偽は不明。

2019年のインタビューでは「愛知県生まれ。3歳で北海道札幌市へ引っ越し、小学校と中学校時代を過ごすと、高校で再び愛知県名古屋市に戻った」と語っている[5]

1983年早稲田大学法学部卒業。大学時代は、自主映画にかかわり、石井聰亙長崎俊一矢崎仁司保坂和志室井滋らと知合う。

パルコに入社してイベントや展覧会の企画を行うが翌年退社[6]。音楽プロモータースマッシュぴあなどに勤務[7]。会社勤めとなっても、やはり音楽放送出版広告宣伝企画関係の仕事を毎年転々。傍ら『POPEYE』、『週刊SPA!』、『BRUTUS』、『ガロ』、『思想の科学』、『BURRN!』などの雑誌に執筆。

30代でライター専業となる。幅広いジャンルを手掛け、この間のペンネームは、デザイナーとして"幸田図版"、ビデオ評論家"村田ビデ雄"、ドラッグ研究家"麻薬師丸ヒロポン"、音楽評論家"皮むけ隆一"、オカルティスト"ブードゥー小百合"、町の考古学者"メソポタミア二郎"、博学家"こりゃまた宏"などを名乗り、活字になったものだけで20は越える。またテレビ11PM」には汚物評論家おりものまさお、モンド評論家中村モンドとして出演した[注 2]

また過去には一時、日本テレビの深夜映画番組の前説のトークに「古本のオーソリティにして、モンドなんでも博士」として和服姿で出演していた。

ものごとに凝りやすい性格で、一時は「飲尿療法」にも凝って実践していた。

また「ホーミー」に凝っていたこともあり、1991年中野純、大井夏代、谷口正明らと「モダンホーミー協会」(正式名称:秘密結社近江商法会)を結成。ホーミーの練習及び普及活動を行う。

特に、他人が嫌がる「危ない」話題や問題(エログロ宗教、民族問題など)にこだわる傾向がある。

広瀬隆の著書『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』を信奉して、周囲に広めていたこともあるが、後にこれは、「間違っていた」と撤回した。その後、2011年福島第一原子力発電所事故発生まで原子力発電所についての言及は控えていた。ただし、原発推進に転じたわけではない。福島第一原子力発電所事故に際しては、自身の有料メールマガジン(後述)で、体内被曝の危険性、原発産業の問題点などを指摘している。

なお、「超能力演歌歌手・サバヒゲ」と自称する男性とタマタマ知り合い、面白がって交際していたが、あまりの、うさんくささに松沢も辟易し、根本敬をはじめとする「幻の名盤解放同盟」の面々に、「相手をしてもらう」のを譲ったこともある(根本の著書『因果鉄道の旅』に詳細あり)。

古書収集も盛んに行っており、『松沢堂の冒険 鬼と蠅叩き』はその成果が出た本。松沢は、この傾向の「古書関係の本」を続けて出したかったが、のちに到来する「古本ブーム」以前であり、売れ行きが悪く、続編は出なかった。

1990年代からは得意の「エロ関係」の執筆が多くなりペンネームも「松沢呉一」に統一。一時、「市井の性科学者」を名乗っており、「明治以降の性文献の収集では日本一」と語っている。その性文献の収集の成果が、『魔羅の肖像』となった。なお、同書は、書いているうちに題名と内容が乖離し、フェミニズム関係者が主張していた「クリトリス至上主義」を論破し、ヴァギナの中に性感帯があることを研究・主張した本となった。1993年5月には、SPA!の特集「日本人の自慰」のアンケートを作成。それ以前からオナニー特集の企画を出していたが、創刊5周年の特集でようやく日の目を見る。大規模なアンケートを行い、松沢の知る限りオナニー単独でこれほど細かい調査が行われたことはなかったと言わしめた。名簿業者からリストを購入、返信用切手同封の上、協力者にはテレフォンカードを送るなどしたため、経費が膨大となり、松沢のギャラが削られることになったが、その後データを自由に使っていいとの条件であったために、ノーギャラでもメリットがあると考えた[8]

1993年5月22日には、日本青年館オウム真理教の専属オーケストラであるキーレーンのコンサートを鑑賞。麻原彰晃作曲とされる曲が意外に面白く驚いたが、オーケストラの団員は指揮者を見ず、まとまりに欠けると批評。この当時のロシアは、長年宗教が抑圧されていたため、オウム真理教は信徒数を大幅に伸ばし、宗教の入れ食い状態であり、自由の象徴ですらあるとも述べている。このコンサートの後で、出家前にはアサ芸の元ライターだった広報担当者と食事をするが、「坂本弁護士はどこへ行った」などと尋ねる。この際には、坂本弁護士一家失踪事件はオウムの仕業ではないと考えていた[8]1995年以降のオウム真理教事件については、前年の松本サリン事件を教訓に、オウムに対しても慎重な態度を取るべきだと主張した。そのため、実際に殺害の対象とされていた小林よしのりや、切通理作に「オウムの手先」と非難された。


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