松江騒擾事件
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事件の背景

事件を起こした皇国義勇軍のメンバーは、全て主犯の岡崎功(当時満25歳)の影響を受けていた。また、サブリーダーの長谷川文明(当時24歳)と行動隊長格の波多野安彦は、大東塾影山正治を崇拝していたとされる[10]。この岡崎・長谷川・波多野の3人は、事件発生の約半年前から、島根県松江市内の大日本言論報国会島根支部を介して知り合い、敗色の濃い戦局のなかで「昭和維新・一斉決起」の謀議を行っていたが、そのまま1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎えた。終戦までの詳細は以下の通り。
皇国義勇軍・岡崎功勤皇まことむすびの機関誌『維新公論』

主犯の岡崎功(本名・岡崎允佐夫[11]1920年(大正9年)7月17日[12] - 2006年(平成18年)[13])は、島根県に生まれ、1939年(昭和14年)3月に松江中学校を卒業後、2年間満洲三井物産奉天支店に勤務中、国粋主義に感化された。1942年(昭和17年)11月に日本に戻り、僧侶を目指して立正大学専門部に入学するかたわら、中学時代の親友である広江孤文がいた国家主義団体の勤皇まことむすびにも所属、国家革新運動に参加していった。当時の岡崎が影響を受けた書籍としては、満田巌『昭和風雲録』、松永材『皇国体制』、天野辰夫『国体皇道』などがある[1][14]

岡崎は私財を投じて府立高校隣接地(後の東京都立大学 (1949-2011))に「一心寮」を設置し、そこで毎晩、拓殖大学2年生の斉藤(実藤とする資料もある[14])直幸ら7、8人とともに為政者・軍閥を批判し激論を交わしていた。当時は太平洋戦争における日本の敗色が濃厚な時期であり、東條内閣の打倒や暗殺が様々なグループによって画策されていた。内大臣木戸幸一中野正剛らも、首相陸相海相を刷新する秘密工作を行っていた。しかしこれを察知した東條が先手を打ち、新首相候補とされていた宇垣一成が勾留される事態に発展した。これを知った岡崎は、東條が陸海軍の協調を阻害しており、話し合いでは事態が進展しないと考え、東條や一木喜徳郎の暗殺を計画[15][11]早稲田大学配属将校から手榴弾短銃を入手しその機会を待った。しかしこの企ても、岡崎とは別に斉藤らが企てた東條打倒計画が事前に憲兵隊に露見し、そこから芋づる式に岡崎も連行された。1943年(昭和18年)7月、放火殺人予備爆発物取締罰則違反で連行され、巣鴨拘置所に1年半勾留の後、1944年(昭和19年)9月に懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けた[15]

岡崎は同年11月に釈放されたが、飯島与志雄が結成した尊攘同志会に直ちに参加、特別高等警察から要注意人物としてマークされ続けた。島根県松江市に帰郷したのちは昭和維新運動の指導的人物として活動を続ける一方で、勤労動員署傭員となった[14][16]。岡崎が太平洋戦争の内実をみることになったのは、この勤労動員署勤務時の体験による[17]

この勤労動員署で岡崎は「要注意人物」という人物像とは全く別人と考えられるような行動をとった[16]


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