松永久秀
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低い身分、外様からの重臣への抜擢自体は他の大名家でも見られるが、上杉家は樋口兼続に直江家の後を継がせ直江の城と家臣団を継承させ、北条家は福島(櫛間)綱成に北条の名字を与え一門に列席させるなど、抜擢するに応じて相応の家格・地位・領地・家臣団を与えている。滝川一益明智光秀を外様から抜擢した織田信長も、家格という観点から、光秀や丹羽長秀に惟任氏、惟住氏の名跡を継がせている[注釈 4]

これらと比較して、三好長慶は久秀や岩成友通を登用し、彼らは三好政権で枢要な地位につくほどの重臣となったが、彼らが阿波時代からの三好譜代の名跡と家格を継承した形跡はない。これは三好家の人事登用が従来の家格にとらわれないものであったことの証左と言われる[24]。天野忠幸は、この抜擢について、摂津の土豪など元々は低い身分で独自の領地や家臣衆を持っていない者を取り立てて、その基盤が三好長慶自らの信頼だけの、自分に忠誠を尽くす家臣団を作ろうとしたと指摘している[25][注釈 5]
三好長慶の寵臣時代三好長慶像/大徳寺・聚光院蔵

天文18年(1549年)、三好長慶が細川晴元、室町幕府の13代将軍足利義輝らを近江国へ追放して京都を支配すると、公家や寺社が三好家と折衝する際にその仲介をする役割を、三好長逸と共に果たすようになった[27]。例えば、同年、公家の山科言継今村慶満から所領の利益を押領されたため、これを回復する為に長慶らと交渉を開始するが、その際に度々交渉先の相手として久秀が登場している[21]。同年12月には久秀は本願寺の証如から贈り物を受けている[21]

久秀は長慶に従って上洛し三好家の家宰となり、弾正忠に任官し、弾正忠の唐名である「霜台」(そうだい)を称する(霜台を称したのは永禄3年(1560年)からともされる)[注釈 6]

上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任され、天文20年(1551年7月14日には等持院に攻め込んできた細川晴元方の三好政勝(宗渭)、香西元成らを弟の長頼と共に攻めて打ち破っている(相国寺の戦い)。しかし、この戦で両軍の放火の為に相国寺の塔頭、伽藍などが灰燼に帰してしまう[29]

長慶に従い、幕政にも関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられる(弘治2年(1556年)7月とも)。同年9月には長頼と共に丹波国波多野秀親の籠る数掛山城を攻める[30]が、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝、香西元成に背後から奇襲を受け惨敗を喫する[30]。この戦いで味方の内藤国貞が戦死を遂げ、内藤家に混乱が生じる。その後は長頼が国貞の遺子である千勝の後見人をするという形式で内藤家を継承、丹波平定を進めていった[31]

天文24年(1555年)、久秀は六角義賢の家臣・永原重興に送った書状の中で、将軍・義輝を「悪巧みをして長慶との約束を何度も反故にして細川晴元と結託しているから、京都を追放されるのは『天罰』である」と弾劾している[32]。また長慶の書状も併せて送り、長慶が天下の静謐を願っていることを伝えている[32]

弘治2年(1556年)、奉行衆に任じられ、6月には長慶と共に堺で三好元長の二十五回忌に参加している[33]。同年7月、久秀の居城滝山城へ、長慶が御成し[注釈 7]、歓待された[35]。久秀が千句連歌で、そして観世元忠の能で長慶をもてなした[35]

永禄元年(1558年)5月、足利義輝、細川晴元が近江国から進軍して京都郊外の東山を窺うと、久秀は吉祥院に布陣し[36]、弟の長頼、三好一門衆の三好長逸、伊勢貞孝、公家の高倉永相と共に洛中に突入して威嚇行動を行ったのち[37]将軍山城如意ヶ嶽で幕府軍と交戦し、11月に和睦が成立すると摂津国へ戻った(北白川の戦い)。

永禄2年(1559年)3月、三好長慶は鞍馬寺で花見を開催する。この際、久秀も谷宗養三好義興、寺町通昭、斎藤基速、立入宗継細川藤賢らと共に参加している[38]。また同年、家臣の楠木正虎楠木正成の子孫)が、北朝から朝敵として扱われているが、これを赦免して欲しいと前から願っており、久秀はこれを聞き入れて、正親町天皇に赦免を許可して欲しいと交渉している[39]。正虎は赦免された上に河内守にも任官された[40]。この交渉とそれにおける楠木氏の朝敵赦免には足利義輝も関与しており、彼も赦免に同意し許可した。しかし、義輝にとって足利家の仇敵であり敵対した南朝の中心人物である楠木氏を赦免することは内心とても不愉快であったろうし、強い危機感を抱いたに違いないという指摘もある[注釈 8]

久秀は同年5月の河内国遠征に従軍し、戦後は長慶の命令を受けて残党狩りを口実に8月6日大和国へ入り、1日で筒井順慶の本拠筒井城を陥落させ追い払った[41]。次に平群谷を焼き、筒井方の十市氏を破った[42]。同年8月8日には信貴山城を修築しここに入る[43]

永禄3年(1560年)には興福寺を破って大和一国を統一する一方、長慶の嫡男・三好義興と共に将軍・義輝から御供衆に任じられ、1月20日に弾正少弼に任官。6月から10月までの長慶の再度の河内遠征では大和国に残り、7月から11月にかけて大和北部を平定し、三好家中の有力部将として台頭していった[44]。そして同年11月に滝山城から大和北西の信貴山城に移って居城とする[45]。やがて信貴山城に天守を造営した。

永禄4年(1561年)2月4日に従四位下に昇叙されると、それまで称していた藤原氏から源氏を称するようになった。また2月1日には義輝から桐紋塗輿の使用を許された(『歴名土代』『御湯殿上日記』『伊勢貞助記』)が、これは長慶父子と同等の待遇であり、既にこの頃には幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として見られていた事がわかる[46]。義輝が参内などをする際、久秀は義興と共に幕臣として随行しており、また義輝の元に出仕して仕事を行う頻度も増えてゆく[8]。この御供衆任命が、久秀の政治生命・人生における一つの分水嶺とも解釈され[47]、久秀と義輝が関与する史料がこれ以降増加する。長慶には多くの被官がいたが、ここまでの出世を遂げたのは久秀一人である[48]

この頃、久秀は長慶と「相住」(同居)の関係(『厳助大僧正記』)にあり、長慶の側近として特に重用されていた。同年からは六角氏への対応のため、三好軍の主力を率いてしばしば交戦している。

永禄4年(1561年)3月、将軍・義輝が三好義興の邸宅に御成し、歓待を受ける。ここで久秀は、義輝に太刀を献上したり、義輝の側近達を接待したりするなど、三好家の人間として義輝達を接待する[7]一方で、具足の進上、義輝達への食事の配膳、食事中の義輝に酒を注ぐなど[49]、御供衆の仕事も務めている。


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