松本清張
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^ この前にキューバ政府主催の「世界文化会議」に出席し、国家元首のフィデル・カストロと会見しようとしたが実現しなかった[61]
^ 邪馬台国論争では(清張に近い)九州説論者として知られていた。
^ 対談は『古代史の謎-松本清張対談』などに収録。
^ 「論争」については、『小説推理』1974年7・10月号(清張の指摘)、9・11月号(高木の反論)参照。経緯に関しては、佐野洋『ミステリーとの半世紀』277-281頁、郷原宏『物語 日本推理小説論争史』(2013年、双葉社)第三章も参照。
^ 清張から見た創共協定の記録として、

『「仲介」者の立場について-創価学会・共産党協定』(『東京新聞』1975年8月9日付掲載、『松本清張社会評論集』に収録)

『「創共協定」経過メモ』(『文藝春秋』1980年1月号掲載、『作家の手帖』(1981年、文藝春秋)に収録)
がある。
^ アガサ・クリスティ研究家の数藤康雄に拠れば、クイーンとの対談に先立つ1973年、ロンドン・タイムズと朝日新聞社の共同企画として、イギリスの世界的な推理作家であるクリスティと清張の対談が企画されたが、クリスティが自身の高齢(当時82歳)を理由に辞退したため実現しなかったとされている[66]
^ 新聞『ル・マタン(フランス語版、英語版)』紙では「Matsumoto, l'intellectuel fascine par la laideur」の見出しで紹介された。既に『砂の器』などがフランス語に翻訳され、『ル・モンド』『リベラシオン』などの各紙で紹介されていた。仏語版『砂の器』(Le Vase de Sable)の初版には、「LE SIMENON JAPONAIS」(日本のシムノン)と書かれた帯が付されていた。
^ 自身、短編の執筆を好んでいたことを明言していた。

「短篇小説ほど作者の考えをはっきりとさせるものはない。(中略)エドガー・アラン・ポーや、アントン・チェーホフギ・ド・モーパッサンサマセット・モーム上田秋成の諸短篇が、他の長篇小説に比べていささかも遜色がないばかりか、かえって、そのテーマの明快さのために力強い感銘を与えている。短篇小説はたった一つだけ焦点を設定し、それに向かって可能な限り直截な方法で効果を集中させてゆく。これは短篇の形式でなければ得られない妙味である」[86]

「わたしは、どちらかというと長篇よりも短篇が好きで、短篇の数が多い。短篇は、焦点が一つに絞られて、それへの集中が端的だからである。短篇小説が長篇小説ほどに迎えられないというのはふしぎだし、書き手が長篇を多く指向するのもわからない」[87]

^ 例えば、文芸評論家の平野謙は、「『或る「小倉日記」伝』から『菊枕』『断碑』などにいたる一連の作品群のなかに、松本清張の作家的真面目があるのではないか」[88]と評し、推理小説評論家の権田萬治は「むしろ短編のほうが上だという気がしてならない」と述べている[89]
^ 平野謙に拠る表現。平野は作者がこれらの作品の主人公へ共感を寄せると共に、その限界を客観的に洞察しているとして評価し、「私小説のように見えるが私小説ではない」「世のつねの被害者意識いっぱいの私小説をつきぬけたところがある変形私小説」などと評している[90]。また、あわせてこれらの作品に後の作品の萌芽を見出し、「犯罪者への傾斜と、人間的社会的条件をひとつひとつ追求する名探偵の眼」と付け加えている。なお、芥川賞受賞時の選評において坂口安吾が、「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり」と評したことはよく知られている。
^ 「むだのない殺しの美学」とも訳される。
^ 中島河太郎によれば、用語としての「社会派推理小説」の起源は荒正人によるものとされている[99]
^ 清張の推理小説を「社会派」の文脈ではなく、横溝正史などの古典的探偵小説と連続した系譜に位置付ける論考として、笠井潔「壊れた人間と平和な現在 - 松本清張論」(『探偵小説論I 氾濫の形式』(1998年、東京創元社)収録)など。
^ 晩年の清張に同行していた藤井康栄がノンフィクションは無理と判断した[77]
^ 「かのように」「魔唾」「佐橋甚五郎」など?外の作品を清張が推理小説と関連づけた文章として、「?外の暗示」(『森?外・松本清張集<文芸推理小説集I>』(1957年、文芸評論社)掲載、のちに『松本清張推理評論集』(2022年、中央公論新社)収録))がある。
^ オール讀物』1979年12月号掲載、エッセイ集『グルノーブルの吹奏』に収録。
^ 歴史学者の成瀬治を指す[134]
^ 「『純』文学は存在しうるか」において、「プロレタリア文学理論やその党派的行きがかりに全く煩わされなかった松本清張」により「資本主義の社会悪をえぐって描き出す大きな作品」が実現されたと書き、清張を一時高く持ち上げた文芸評論家。
^ 清張や水上勉を高く評価し、純文学論争の中心となった文芸評論家。
^ 『日本の黒い霧』を歴史学的視点から検証したものとして、藤井忠俊「「日本の黒い霧」の時代認識と評価―「黒地の絵」と帝銀・下山・松川事件諸作品の資料検証」(『松本清張研究』第5号(2004年、北九州市立松本清張記念館)収録)がある。
^ 清張が自らの歴史観を述べた一例として、以下のものがある。ぼくの史観? それはイデオロギーとか、政治学ではなくて、やはり人間を、あるいは組織をですね、見下ろすんじゃなくて、底辺のところで見まわす、あるいは上を見上げるというか、そういうことだろうと思うんだ。ぼくは上から人間を描いたことがないと思いますけどね。 ? [138]他方、司馬は以下のように書いている。俯瞰、上から見下ろす。そういう角度が、私という作家には適している ? [139]
^ 三島側の視点からこの件を論じたものとして、橋本治『三島由紀夫とはなにものだったのか』(2005年、新潮文庫)中の「松本清張を拒絶する三島由紀夫-あるいは、私有される現実」など。
^ 日本近代文学研究者の久保田裕子は、『日本の文学』第1回の編集会議で「日本文学の代表権が井上靖と松本清張に移ったことは、好悪を越えて、ちょうど日本の政治の代表権が保守党にあるのと同じ程度において、総括的真実である」と桑原武夫が断言し、三島が刺激されたと述べている[143]
^ 『探偵小説四十年』中の「涙香祭と還暦祝い-昭和二十八・九年度」の「翻訳ブームの曙光」などにそうした記述があるが、清張との対談『これからの探偵小説』中でも、清張に対して同様の見解を述べている。
^ 木々はのちにこの時のことを以下のように回顧している。この作家(清張)はね、もしも養成すれば、たいへんにいいものが出るのではなかろうか、と思って返事を出しましてね。これ(『西郷札』)一つじゃ困る、これくらいのものを二・三編送ってくれ、そうすれば自分も『三田文学』に紹介するつもりでいる、という返事を出した。 ? [153]
^ 木々の死去を受けて、清張は日本推理作家協会の機関誌『推理小説研究』第7号(1969年)巻頭に追悼文を掲載している[155]
^ この論争の詳細は、荒正人・中島河太郎編『推理小説への招待』(1959年、南北社)を参照。
^ 宮部みゆき参加の座談会の一例として、

「清張流「旅はひとりがいい」」『松本清張研究』第3号(2002年、北九州市立松本清張記念館)収録

「清張さんの魅力」『文藝春秋』(2010年4月号)掲載

「拝啓、清張先生-清張作品の魅力再発見」『松本清張研究』第14号収録
など。
^ 岡崎満義は「社会で機能する具体的な権力の1つとして(共産党の)効用を認めていたが、観念論の網にからめとられることはなかった」と回顧している。
^ 場所は虎ノ門の中華料理店「晩翠軒」であった。この時も、他の推理作家に先んじ、ガードナーと直接英語で推理小説に関する議論を行っていた[171]。山村正夫によれば、ガードナーは清張に「日本の推理作家はなぜ国内だけで作品を消化せず、海外マーケットへの進出にもっと積極的にならないのか?」と反問したという[172]
^ 英語力に関しては、文藝春秋関係者、海外取材同行者、エラリー・クィーンとの対談時の同席編集者など、証言多数[173]

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