松本清張
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 清張の作品分野は多岐にわたるが、ここでは図録『松本清張記念館』(1998年、北九州市立松本清張記念館)の分類を参照して記述した。
^ 江上波夫、直木孝次郎、森浩一らによる。後述
^ 峯太郎の松本家への養子入りは、田中雄三郎・とよ夫妻の離別が契機。しかし雄三郎ととよはのちに復縁し(のち峯太郎の弟に当たる嘉三郎を生む)、峯太郎を田中家に返してくれるよう松本米吉に交渉したが、米吉夫妻には子供がなく、峯太郎を離さなかった。[29]
^ 「正式に出生届を出す前は、キヨハルは清張でなく、この字(清治)をあてていたらしい[31]
^ 清張の家族が下関から小倉に転居したのは小学校5年生の時とする説が有力[36]
^ 当時の地番表示では小倉市黒原営団374。現在の地番表示では北九州市小倉北区黒住町16-14。六畳、四畳半、三畳の三間[40]。1953年11月に東京に単身赴任するまで住んでいた。住居は清張の上京後、朝日新聞西部本社の社員が入居しその親族が引き継いでいたが、2013年に解体された。
^ 『西郷札』に関わるエピソードを自ら語った文章を以下に挙げる。

「『西郷札』のころ」:『実感的人生論』(2004年、中公文庫)などに収録。

「運不運 わが小説」:エッセイ集『名札のない荷物』(1992年、新潮社)、『松本清張全集 第65巻』(1996年、文藝春秋)に収録。

^ この時の選考委員の「選評」と清張の「感想」は、『松本清張の世界』(1992年、文藝春秋臨時増刊/2003年、文春文庫)に収録されている。
^ 朝日新聞東京本社広告部長の矢野伊三見宛て手紙では、文学で成長するためにも早く東京に出たいと述べている[43]
^ 清張の父方の叔父・田中嘉三郎の家。嘉三郎は既に死去していたが、その家族が住んでいた。
^ 当時の地番表示では関町1丁目131番地。現在の地番表示では関町南2丁目であり、関町南二丁目バス停付近。六畳一間と四畳半二間に家族8人で住んでいた[40]。当時の住居は残っていない。
^ 当時の地番表示では上石神井1丁目682番地。現在の地番表示では関町東1丁目の1番地と2番地の境界付近に相当。当時の住居は残っていない。
^ 筑摩書房「世界ノンフィクション全集」は1960年4月の刊行開始であるが、探検記や旅行記、戦記などが中心の内容であった。吉村昭のノンフィクション小説『戦艦大和』が刊行されたのは1966年であるが、ドキュメンタリーあるいはルポルタージュ的内容を持ったノンフィクションが広い支持を得て、専門のノンフィクションライターが職業として成立するのはさらに後の時代である[48]
^ 転居当時の地番表示では上高井戸4丁目1762番地。現在の地番表示では高井戸東1丁目22番地3号。終の棲家となった。全体家屋のうち一階の応接室および二階の書斎、二階建の書庫等を含む部分が、北九州市立松本清張記念館で再現展示されている。
^ それまでの探偵作家クラブが「社団法人・日本推理作家協会」に改組された際、清張は100万円を出資した。これは江戸川乱歩の信託預金と共に、個人としては最高額であった[54]
^ 2月25日 - 3月22日分の記録として「日記メモ」(エッセイ集『名札のない荷物』、『松本清張全集 第65巻』)がある。
^ この前にキューバ政府主催の「世界文化会議」に出席し、国家元首のフィデル・カストロと会見しようとしたが実現しなかった[61]
^ 邪馬台国論争では(清張に近い)九州説論者として知られていた。
^ 対談は『古代史の謎-松本清張対談』などに収録。
^ 「論争」については、『小説推理』1974年7・10月号(清張の指摘)、9・11月号(高木の反論)参照。経緯に関しては、佐野洋『ミステリーとの半世紀』277-281頁、郷原宏『物語 日本推理小説論争史』(2013年、双葉社)第三章も参照。
^ 清張から見た創共協定の記録として、

『「仲介」者の立場について-創価学会・共産党協定』(『東京新聞』1975年8月9日付掲載、『松本清張社会評論集』に収録)

『「創共協定」経過メモ』(『文藝春秋』1980年1月号掲載、『作家の手帖』(1981年、文藝春秋)に収録)
がある。
^ アガサ・クリスティ研究家の数藤康雄に拠れば、クイーンとの対談に先立つ1973年、ロンドン・タイムズと朝日新聞社の共同企画として、イギリスの世界的な推理作家であるクリスティと清張の対談が企画されたが、クリスティが自身の高齢(当時82歳)を理由に辞退したため実現しなかったとされている[66]
^ 新聞『ル・マタン(フランス語版、英語版)』紙では「Matsumoto, l'intellectuel fascine par la laideur」の見出しで紹介された。既に『砂の器』などがフランス語に翻訳され、『ル・モンド』『リベラシオン』などの各紙で紹介されていた。仏語版『砂の器』(Le Vase de Sable)の初版には、「LE SIMENON JAPONAIS」(日本のシムノン)と書かれた帯が付されていた。
^ 自身、短編の執筆を好んでいたことを明言していた。

「短篇小説ほど作者の考えをはっきりとさせるものはない。(中略)エドガー・アラン・ポーや、アントン・チェーホフギ・ド・モーパッサンサマセット・モーム上田秋成の諸短篇が、他の長篇小説に比べていささかも遜色がないばかりか、かえって、そのテーマの明快さのために力強い感銘を与えている。短篇小説はたった一つだけ焦点を設定し、それに向かって可能な限り直截な方法で効果を集中させてゆく。これは短篇の形式でなければ得られない妙味である」[86]

「わたしは、どちらかというと長篇よりも短篇が好きで、短篇の数が多い。短篇は、焦点が一つに絞られて、それへの集中が端的だからである。短篇小説が長篇小説ほどに迎えられないというのはふしぎだし、書き手が長篇を多く指向するのもわからない」[87]

^ 例えば、文芸評論家の平野謙は、「『或る「小倉日記」伝』から『菊枕』『断碑』などにいたる一連の作品群のなかに、松本清張の作家的真面目があるのではないか」[88]と評し、推理小説評論家の権田萬治は「むしろ短編のほうが上だという気がしてならない」と述べている[89]
^ 平野謙に拠る表現。平野は作者がこれらの作品の主人公へ共感を寄せると共に、その限界を客観的に洞察しているとして評価し、「私小説のように見えるが私小説ではない」「世のつねの被害者意識いっぱいの私小説をつきぬけたところがある変形私小説」などと評している[90]。また、あわせてこれらの作品に後の作品の萌芽を見出し、「犯罪者への傾斜と、人間的社会的条件をひとつひとつ追求する名探偵の眼」と付け加えている。なお、芥川賞受賞時の選評において坂口安吾が、「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり」と評したことはよく知られている。
^ 「むだのない殺しの美学」とも訳される。
^ 中島河太郎によれば、用語としての「社会派推理小説」の起源は荒正人によるものとされている[99]
^ 清張の推理小説を「社会派」の文脈ではなく、横溝正史などの古典的探偵小説と連続した系譜に位置付ける論考として、笠井潔「壊れた人間と平和な現在 - 松本清張論」(『探偵小説論I 氾濫の形式』(1998年、東京創元社)収録)など。
^ 晩年の清張に同行していた藤井康栄がノンフィクションは無理と判断した[77]
^ 「かのように」「魔唾」「佐橋甚五郎」など?外の作品を清張が推理小説と関連づけた文章として、「?外の暗示」(『森?外・松本清張集<文芸推理小説集I>』(1957年、文芸評論社)掲載、のちに『松本清張推理評論集』(2022年、中央公論新社)収録))がある。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:362 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef