松本清張
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光文社で清張の初代担当編集者だった櫻井秀勲は、「作家というものは、自伝を書く際もあるので、資料は取っておいた方がいい」と清張にアドバイスしたこともあって、清張は「櫻井君には話しておくか」という気分になったようで、時折、櫻井に自身の生い立ちを話したと証言しており[16][17][18]、清張は「広島で生まれたが、父親のだらしなさから、村役場に出生届を提出していなかった」と話したという[16][17]。また、清張から「父は米の仲買人だった。儲かったときもあったらしく、その話はよく聞かされたが、実際は大損するほうが多かった。私が生まれたときは、その大損をして逃げ出したときで、真冬の寒さの中を、私は母に引かれて小倉にやってきた。ここでやっと出生届を出してもらった」と聞いたと証言している[16][17][18]。後年、櫻井は板櫃村(現・小倉北区)に行き、清張の家族が住んでいたと覚しき町を歩いたが、この頃の住民は清張の家族がどこに住んでいたか誰も知らなかったという[16][18]

この他、清張自身「これまでの作品の中で自伝的なものの、もっとも濃い小説」[19]「私の父と田中家の関係はほとんど事実のままこれに書いた」[20]と記述している『父系の指』の中で「私は広島のK町に生まれたと聞かされた」と書いており[6][9]、清張研究の第一人者といわれる[21]郷原宏は、私小説に書かれているすべてが事実とは限らないが、ここは誰が見ても事実を曲げる必要のないところであり、しかも単に「広島」と書けばすむところをわざわざ「広島のK町」と具体的に踏み込んだ書き方をしており、記念写真の件と合わせて郷原は「小倉は本籍地で出生地とは考えられない」「清張の出生地は広島」としている[5]。郷原はこの「K町」とは広島駅近くの京橋町(現在の南区)と推定している[5]

『松本清張の残像』(2002年)の中で、「松本清張は広島生まれ」と指摘した松本清張記念館館長・藤井康栄は「古い一枚の写真は広島生れの傍証となるものかもしれないけれど、だからといって生年月日や出生地などの公式記録を書きかえることはできない。それらは本人が生涯なじみ、確認しつづけたものなのだから」としつつも[22]、2009年に『朝日新聞』(12月10日付29面)や『中国新聞』(5月28日付11面)の紙上で、清張は広島生まれとしたうえで、清張の戸籍謄本他、全ての公式記録の出生地が小倉になっており、清張本人が出生地の訂正をしなかったものを他人が換えられないと説明している。ただ藤井が「松本清張は広島生まれ」と指摘して以降、清張関連文献に於いて「広島生まれ」と記述するものが増えてきている[9][11][23]日外アソシエーツは2014年刊行の『人物ゆかりの旧跡・文化施設事典』で、松本清張の出生地を「広島県広島市」と記載している[11]。清張自身が「広島で生まれた」と話し、藤井が「松本清張は広島生まれ」と公表したものの、藤井が館長を務める北九州市立松本清張記念館は、清張の出生地が広島であるとの報道について「新説」として触れる一方[24]、現在も「小倉生まれ」との見解をとっている。清張には、清張本人以外に"公式"なる存在があるという奇妙なことになっており、それは松本清張記念館と考えられるが、公立文学館が広島生まれを証明する物証を展示しながら、なお「小倉生まれ」と言い張らざるを得ない理由として、清張を「広島生まれ」と認めてしまうと、清張は10歳?11歳頃から小倉で育ったとされるため、「小倉出身」「北九州出身」とは言えない状況が生まれるためと考えられる。

清張の年譜の初出は1958年の角川書店『現代国民文学全集27 現代推理小説集』の著書略歴とされるが[25]、以降、年譜関連の記述では出生地を福岡県小倉市(または単に福岡県)と記される。ただ清張はインタビューや自伝的小説と呼ばれる作品の中でも「小倉で生まれた」と発言・記述したことはない。なお『松本清張全集』(文藝春秋)の編纂にあたって、清張が特に年譜の訂正を行わなかったことも指摘されている[26]。この点について郷原宏は「出生の環境を恥じる思いもあって、あえて(年譜を)訂正しなかったのだろう」と考察している[27]。2010年の広島市郷土資料館展示では、清張の広島出身の可能性が、多くの資料により検証されている[9][14][28]
家系

田中雄三郎(清張の血縁の祖父、清張の父 峯太郎の実父)   とよ(清張の血縁の祖母、清張の父 峯太郎の実母)            
    
                      

松本米吉(清張の父 峯太郎の養父)
鳥取県米子市)                   

                         
             
峯太郎(清張の父)
(→広島県広島市)   タニ(清張の母)   嘉三郎(清張の血縁の叔父、清張の父 峯太郎の実弟)
(→東京都杉並区荻窪)   りう(清張の義理の叔母、嘉三郎の妻)
       
                       
     
清張                  

父・松本峯太郎は鳥取県日野郡日南町の田中家出身で、幼少時に米子市の松本家に養子入りした[注釈 5]。青年期に養父母宅を出奔し大阪に赴いた後[13]日清戦争開戦の1894年、21歳の時に広島市に来て[13]書生や看護雑役夫などをする。

当地で広島県賀茂郡志和村(現在の東広島市志和町)出身の農家の娘で[13]、広島市内の紡績工場で働いていた母・岡田タニと知り合い結婚[6][14][13]。清張の姉2人は乳児のときに死亡している[13]

年譜では、この後「当時日露戦争による炭鉱景気に沸く北九州に移ったものらしい」と書かれ、この後に清張は生まれたと書かれている。

しかし、『読売新聞』のインタビューでは、清張自身が「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島である。それは旅先だったので、その後、すぐ小倉に行ったものだから、そこで生まれたことになっている」と話している[10]

妻がひとり。娘は外務省の役人で駐ロシア大使・外務審議官を務めた渡辺幸治と結婚した[30]
出生日

1909年12月21日[注釈 1]とされるが、2月12日ともされる。

実際の誕生日に関しては、松本清張記念館にも展示されている清張の幼児期の記念写真の台紙の裏に、「明治四十二年二月十二日生、同年四月十五日写」と墨書されており、残されている幼児期の他の肖像写真にも、「明治四十二年二月十二日 同年六月二十七日写 松本清治[注釈 6]」と書かれている[31]


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