松本明子
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2023年9月29日・9月30日、東京銀座博品館劇場にて、83年組デビュー40周年を記念して「お神セブン[19]再結集」開催。

2024年2月14日 お神セブンのメンバーのうち、小林千絵(CHIE)、松本明子(AKIKO)、木元ゆうこ(YUKO)の関西由来の3人が、頭文字を取った「CHAY(ちゃい)まんねんシスターズ」を結成。「?CHAYまんねんシスターズ甘く楽しいホワイトデーライブ?」開催。
エピソード
子供時代

幼い頃からテレビ好きで[20]、子供の頃は山口百恵ピンクレディーなどのアイドルが好きだった[21]。ただし、幼稚園の頃から酒と歌が好きな父にスナックに連れられ、父の勧めで「津軽海峡・冬景色」や「越冬つばめ」などの演歌を歌っていた[4]。中学生になると松田聖子に憧れ、「聖子ちゃんのようなアイドルになりたい」と思うようになった[20]

3年生の頃にアイドル歌手を目指して上京を決意するが、父から芸能界入りを反対された。それまで父に逆らったことがない母が、「娘の夢を応援してあげましょうよ」と助言したおかげで何とか許可をもらう[4]。卒業後の上京時は、瀬戸大橋はまだなかったため高松港から宇高連絡船に乗船し[22]、この模様は『ズームイン!!朝!』でも紹介された[23][注釈 3]。出港時に「哀しみ本線日本海」(原曲は森昌子)を歌唱した[22]後、本人によると「6時間かけて船で上京した」という[3][注釈 4]
売れないアイドル歌手時代

上京後は父親の親戚宅に下宿し、受験して入った堀越高校普通科に通いながらオーディションを受けては落ちる日々を繰り返した[20][24]。この頃『ホリプロタレントスカウトキャラバン[24]や、芸映主催の「HIDEKI(西城秀樹)の弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション」の全国大会(優勝は石川秀美)にも出場している。その後『スター誕生!』で合格し、渡辺プロからスカウトを受けてようやくデビューが決まった[4]

高校2年次から念願だった堀越の芸能コースに編入し、渡辺プロの寮で暮らし始める[24]。デビュー曲のジャケット写真とテレビ番組出演衣装は、当時渡辺プロで売れていたアン・ルイスを手本として、大プッシュされた[24]。しかし、このデビュー曲はオリコン週間チャート最高位131位とヒットしなかった[注釈 5]

本人曰く、当時は仕事が少なく休まず学校に通ったため、卒業時に皆勤賞をもらったという[25][21]。修学旅行(北海道)も全行程参加し、学級委員も務めるなどしており[26]、教師からは大学進学を勧められた[27]。シングルを何枚かリリースしたほか、リポーターなどの芸能活動をするかたわら、スーパーでのアルバイトなどをする[28]
放送禁止用語発言
発言時の状況など

1983年、アイドル歌手として伸び悩みを感じていた時に『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)の土曜アシスタントに抜擢。1984年4月1日、同番組が『オールナイトフジ』(フジテレビ)とコラボした、テレビとラジオによる2元生放送に出演し、そこで四文字事件を起こす[26]

四文字事件の発端は、片岡鶴太郎笑福亭鶴光に「(当時の)付き合っている男の名前をバラされたくなかったら、カメラに向かって四文字言え」とそそのかされたためだった。本人は後年さらに詳細を語り、「当時、交際していた男性タレントがバイセクシャルとして有名な方だった。それを聞いた鶴光さんと鶴太郎さんから『ゲイと付き合っていると公表されたくないだろう』と言われたため、カメラの真正面で放送禁止用語を発した」としている[29]

本人は四文字について、「私は四国の方で生まれ育ったので、知らない言葉だった[注釈 6]。口にすること自体に抵抗は無かったですね」と述べている。このため、当時の彼女は躊躇なく言ったもので[6]、本人は後に「3回大声で叫んだ」とも証言している[5]。ただしこの3回のうちテレビで放送されたのは、ラジオとの同時放送パートにおいて発言した1回のみであった[30]。この発言直後、スタッフたちが一斉に顔色を失い、AD複数に抱えられて有無を言わさずスタジオからつまみ出されたという[6][注釈 7]
周りの反応や芸能活動謹慎について

この発言は時のフジテレビ会長・鹿内春雄の怒りを買い、フジテレビからしばらく出入禁止処分を受けた。また、フジテレビだけでなく東京のキー局の生放送に出られない状態が約2年間続くこととなった[4]。さらに、それまで細々とあった他の仕事もほぼゼロという状態となったが、関西のラジオ番組だけが面白がって使ってくれたという[26][21]

なお、四文字発言の話題に触れるたび「発言翌日の新聞の社会面に掲載された」と言っているが、新聞の社会面に掲載された事実はない(ノート)

謹慎生活となることが分かった直後、両親を心配させるため泣きながら電話をかけた。本人は“いつでも帰っておいで”と言われるかと思ったが、事の顛末を知った母はケラケラ笑いながら「良かったじゃない。有名になれて」と告げた。続けて、母から「これからは歌手やアイドルの肩書は脱ぎ捨てて、いただける仕事をコツコツやっていきなさい」と助言されたという[4]

仕事がなくなったため、以降高校と寮を往復するだけの日々を送った[26]。その後しばらくは今後の芸能生活に悩み、当時住んでいた渡辺プロの寮の最寄り駅である国立駅前のベンチで毎日のように泣いていた[26]。また、同時期に「公園のトイレで寝泊まりしていた時期がある」と本人が証言している。

なお、実際には数か月の謹慎期間を経て、そのきっかけとなった「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」には同年夏に復帰し、他局のラジオ番組やテレビ番組に曜日レギュラーやコーナーレギュラーなどとして同年秋頃から徐々に出演を始めている。
人物
83年組

松本の歌手デビューは1983年昭和58年)である。同年にデビューした歌手の同期に、森尾由美大沢逸美徳丸純子桑田靖子小林千絵THE GOOD-BYE岩井小百合いとうまい子原真祐美木元ゆうこ井上あずみなどがいる[31]

デビュー当時、前年(1982年)デビューの多数のアイドルが歌番組やドラマなどで活躍していたため、松本や同期のアイドルたちはその陰に隠れてしまった。82年デビューのアイドルが“花の82年組”と呼ばれたのに対し、83年組は後に“アイドル不作の83年組”と総括されるようになった[4]

2013年、デビュー30周年を迎えた大沢がある番組で「同期に会いたい」と希望し、翌2014年1月に松本や先述の同期歌手のうち森尾、桑田、小林、徳丸、木元と再会[16]。以来、7人の内の誰か舞台やライブを行うと必ず誰かが駆けつけ、たまに皆で集まって飲み会などをするようになった。以後各自がブログで上記のことを掲載すると、それぞれのファンを刺激したことで[16]、2018年の同期アイドルとのライブイベント?不作と言われた私たち「お神セブンと申します」?の開催へと繋がった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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