松本人志
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活動時期1982年 - 2024年(活動休止中)[4][5]
同期トミーズ
ハイヒール
内場勝則など
現在の代表番組レギュラー番組
クレイジージャーニー
探偵!ナイトスクープ
スペシャル番組
IPPONグランプリ
M-1グランプリ
過去の代表番組テレビ
一人ごっつ
松紳
人志松本のすべらない話
ドラマ
伝説の教師
ラジオ
放送室
作品著書『遺書』『松本』
ビデオ『VISUALBUM
映画『大日本人』『さや侍
配偶者伊原凛
親族松本隆博(兄)
公式サイト公式プロフィール
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松本 人志(まつもと ひとし、1963年昭和38年〉9月8日 - )は、日本お笑いタレント漫才師俳優司会者映画監督。お笑いコンビ・ダウンタウンボケ、ネタ作り担当。相方は浜田雅功兵庫県尼崎市出身[3]吉本興業所属。愛称は「松ちゃん」[1]。妻は伊原凛。2024年1月より芸能活動を休止[6](詳細は後述)。
経歴御堂筋ランウェイ2022にて、相方の浜田と。(向かって左が松本)

尼崎市立潮小学校尼崎市立大成中学校兵庫県立尼崎工業高等学校機械科卒業。小・中学校の同級生には後の相方となる浜田の他、放送作家の高須光聖がいた。小・中学校時代のあだ名は「まっつん」[2]

小学生時代、実父がうめだ花月の招待券を職場で貰ってくるようになり、家族で通い始めた。これがお笑いとの出会いであり、やがて芸人に憧れを抱くようになった。「その頃ぐらいから、だんだん性格変わってきた。ずっと暗い子供やった」と語っている[7]。なお、浜田との初対面は小学生低学年だが、当時の浜田があまりにもおかしな風貌だった[注釈 1]ため距離が縮まることはなかった。

小学校4年頃、友人の伊東・森岡とトリオ「コマ第三支部」を結成。鉄ゴマ・木ゴマ・プラスチックゴマとそれぞれ名乗り、当時から漫才を演じていた[8][9]。その後、伊東と共に漫才やコントをやっていた。初めてコントを披露した際は「びっくりするぐらい滑った」という[10]

中学時代は伊東・浜田と3人で遊ぶことが多かったものの、ある日に伊東と浜田が喧嘩し、終わった後で浜田が歩いてきて「まっつん、もう行こうや」と言われて浜田の方について行った。当時を振り返って松本は「あの時は伊東より浜田を選んだっていうか…(中略)まあ、伊東とね、もしずーっと一緒にいたとして、伊東ともし一緒に吉本入ってたら俺はどうなってたんやろうとか考えてみるとね──その以前に、まず伊東と2人でやってると吉本には入ってなかったと思うんですよね。浜田は行動力ありますよね。(中略)『吉本に入ろうや、行こうや』って、結局僕のケツ叩いてたのはあいつなんですよ。だから伊東とやったら、そうはなってなかったと思うんですよね…」と語っている[11]。後にこの喧嘩の発端は2003年12月27日にて開催された『放送室 高須ちゃん生誕40周年祭り』日本武道館公開録音にて、伊東本人が「浜田が俺の弟をようおちょくって、最初は俺も笑っとったけど段々兄貴としてムカついた」ことが喧嘩に発展したと述懐している。

1982年、浜田とコンビを結成しNSCへ大阪校1期生として入学。在学当時はこれといったコンビ名を定めず活動していたが、1983年にコンビ名を「ダウンタウン」に正式に決定。しばし関西で活動後、1988年に『夢で逢えたら』で東京進出。

1993年から1995年にかけて、『週刊朝日』に自身のエッセイ(「オフオフ・ダウンタウン」)を連載し、『遺書』および『松本』として単行本化された。それぞれ250万部・200万部を売り上げ、1995年の単行本年間売上で1位・2位を独占した(トーハン調べ)[12]

1994年にライブ『寸止め海峡(仮題)』、1995年に『松風'95』を開催。『寸止め海峡(仮題)』は入場料1万円で行われたコントライブで、松本の他に今田耕司東野幸治板尾創路130R)が出演した。『松風'95』は日本武道館にて客に値段を決めてもらう所謂料金後払い制で行われ、提示された写真にコメントしていく「写真で一言」のみのライブだった。

1996年、『一人ごっつ』が放送開始。『新・一人ごっつ』、『松ごっつ』とタイトルを変えながら約2年間放送された。1998年12月に『松本人志24時間大喜利』を放送した。

1998年夏、長らくオールバックだった髪型を坊主頭へ変えた[注釈 2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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