松平正容
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沖春之助[1](次男)生母は智現院(側室)

元姫(長女。1695年 - 1697年)生母は栄光院(正室)

松平正甫(三男)生母は栄光院(正室)

松平栄之丞(四男。1699年 - 1700年)生母は栄光院(正室)

順姫(次女)生母は栄光院(正室)

松平正房(五男)生母は量寿院(側室)

松平万吉(六男)生母は珊瑚院(側室)

養姫(三女) ー 松平定喬の婚約者、生母は珊瑚院(側室)

松平政五郎(七男)生母は珊瑚院(側室)

松平容貞(八男)生母は本妙院(側室)

常姫、梅園院(四女) ー 前田宗辰正室、生母は唯心院(側室)

松平容章(九男。1725年 - 1786年)生母は唯心院(側室)

栄光院(ゆらの方)はもとは側室であり、継室に上げられた。

正容は側室を家臣に下げ渡す、いわゆる拝領妻が多かった。継室となった栄光院の権勢をはばかってのことといわれる。容貞の母、本妙院(伊知、塩見氏)は、14歳で側室となり、翌年容貞を出産した。16歳で家臣・笹原忠一に下げ渡され、娘も生まれたが、容貞が兄たちの早世により嫡子となったため、強制的に離縁となった。当初離縁を拒否した笹原家は処分を受け、また本妙院は23歳で病没した。このことが『拝領妻始末』の題材となっている。
脚注[脚注の使い方]^ 沖氏の養子










会津松平家3代当主(1681年 - 1731年)

保科正之 - 保科正経 - 松平正容 - 容貞 - 容頌 - 容住 - 容衆 - 容敬 - 容保 - 喜徳 - 容大 - 保男 - 保定 - 保久










保科家/会津松平家会津藩第3代藩主 (1681年 - 1731年)
蒲生家

蒲生秀行1601-1612

蒲生忠郷1612-1627

無継嗣。弟・忠知を後嗣とし、伊予松山藩で存続。

加藤家

加藤嘉明1627-1631

加藤明成1631-1643

会津騒動により改易。明成の長男・明友が後に石見吉永藩主に。

会津松平家

保科正之1643-1669

保科正経1669-1681

松平正容1681-1731

松平容貞1731-1750

松平容頌1750-1805

松平容住1805

松平容衆1806-1822

松平容敬1822-1852

松平容保1852-1868

松平喜徳1868

戊辰戦争敗北により領地没収、廃藩。容保の長男・容大が後に陸奥斗南藩主に。

酒井家

酒井忠宝1868-1869

1869年、明治政府民政局による直轄地となる。


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