栄光院(ゆらの方)はもとは側室であり、継室に上げられた。
正容は側室を家臣に下げ渡す、いわゆる拝領妻が多かった。継室となった栄光院の権勢をはばかってのことといわれる。容貞の母、本妙院(伊知、塩見氏)は、14歳で側室となり、翌年容貞を出産した。16歳で家臣・笹原忠一に下げ渡され、娘も生まれたが、容貞が兄たちの早世により嫡子となったため、強制的に離縁となった。当初離縁を拒否した笹原家は処分を受け、また本妙院は23歳で病没した。このことが『拝領妻始末』の題材となっている。
脚注[脚注の使い方]^ 沖氏の養子
保科正之 - 保科正経 - 松平正容 - 容貞 - 容頌 - 容住 - 容衆 - 容敬 - 容保 - 喜徳 - 容大 - 保男 - 保定 - 保久
表
話
編
歴
保科家/会津松平家会津藩第3代藩主 (1681年 - 1731年)
蒲生家
蒲生秀行1601-1612
蒲生忠郷1612-1627
無継嗣。弟・忠知を後嗣とし、伊予松山藩で存続。
加藤家
加藤嘉明1627-1631
加藤明成1631-1643
会津騒動により改易。明成の長男・明友が後に石見吉永藩主に。
会津松平家
保科正之1643-1669
保科正経1669-1681
松平正容1681-1731
松平容貞1731-1750
松平容頌1750-1805
松平容住1805
松平容衆1806-1822
松平容敬1822-1852
松平容保1852-1868
松平喜徳1868
戊辰戦争敗北により領地没収、廃藩。容保の長男・容大が後に陸奥斗南藩主に。
酒井家
酒井忠宝1868-1869
1869年、明治政府民政局による直轄地となる。