松平忠固
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2度目の就任

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出典検索?: "松平忠固" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年11月)

両者罷免後に、かえって幕府内での孤立を深めた正弘は、安政2年(1855年)10月には開国派の巨頭・堀田正睦を老中に招聘した。しかも正睦へは、形式的に首座の地位まで譲ることで斉昭のような外部からの抗議の矛先を躱しつつ実権を確保し、幕政に専念できる体制造りに取り組んだ。ただ、その甲斐も無く安政4年(1857年)6月に在任のまま正弘が死去。後事を託された堀田正睦は日米間の条約交渉を共に推進する同志として、開国派の忠優を復帰させる決断をした。忠固と改名した忠優は、勝手掛も兼ねる次席格の老中として再び敏腕を揮う機会を得た。

再任後の忠固は日米修好通商条約締結につき、勅許不要論を唱え、一刻も早い締結を主張し、要勅許を唱える外野の斉昭や松平慶永と対立した。また、慶永や尾張藩主・徳川慶勝将軍継嗣問題一橋慶喜を推して雄藩連合でこの難局に対処すべしと主張したのに対して、忠固は紀州藩主・徳川慶福を将軍とし、従前どおり譜代大名中心で幕政を進めるべしと考えていた。

日米修好条約の勅許を得るために上洛中の正睦を、忠固は見限って近江国彦根藩主・井伊直弼大老にする工作を行った。一説によると、一橋派に寝返った正睦を直弼に逐わせ、直弼を傀儡にして自らが老中首座として佐幕路線を突っ走る目論見があったといわれる。しかし、直弼は大老として既に13代将軍徳川家定から全幅の信任を受けており、忠固などいつでも逐える体制を整えていたのは彼によって予想外のことであった。

なお、忠固は南紀派であったという解釈が一般的であるが、実際にはどちらにも与せず中立であったという説もある。南紀派の井伊直弼も一橋派の松平慶永もそれぞれ将軍継嗣問題に絡んで忠固に黄金を贈ろうとしているが、忠固は受け取らなかった[5]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}後世に忠固が評価されていないのは、その中立的スタンスが災いして、一橋派からも南紀派からも悪く言われたためではないかとも思われる[独自研究?]。

安政4年(1857年)のあいだ、忠固は条約に専念し、将軍継嗣問題に中立であったが、安政5年に入って慶永の説得を受け入れ、一橋支持の立場で、家定大奥の説得に務めた。家定は一時的に忠固の説得を受け入れたが、大奥の反対を覆せなかったというのが真相であろう[独自研究?]。一橋派は天皇を政治利用し、過激化して将軍廃立まで主張するようになり、忠固は激怒して一橋派から離れた。忠固に対する一橋派の期待が大きかっただけに、裏切られたと思ったときの反動も大きく、忠固は当初から南紀派であったのに、それを隠して、慶永に協力するような態度を見せ、一橋派を罠にかけて騙し、陰で井伊直弼大老にする工作を行ったという「物語」を作り上げた。一橋派の立場を貫いた堀田正睦は京都から江戸に帰着した早々の安政5年4月22日、家定に対し、松平慶永を大老に推挙する建議を行ったが、家定の怒りを買い、井伊直弼の大老就任を厳命された。4月23日に大老に就任した井伊直弼は、条約締結にあたって勅許を得るか否かで忠固と激しく対立し、5月12日には忠固の罷免を家定に要請した。家定の回答は、「奥向之者」たちが忠固を「精忠之者」と評価し、その方(井伊直弼)とともに手を組んで政局に当たってほしいと希望しているので、将軍後継問題が片付くまで待ってほしいというものであった。5月19日に忠固罷免を再度申し入れたが、堀田は罷免するが、忠固は留任させる、堀田には奥向の支持は無いが、忠固は奥向の評判がよいからという回答であった。どうしても忠固を切りたい井伊は、5月25日、堀田罷免に同意するので、忠固も罷免してほしいと家定に提案し、結局、将軍後継が決まり次第、堀田と忠固を同時に罷免することに決まった[6]

日米交渉における忠固のスタンスは一貫している。当時、破竹の勢いでアジア諸国を植民地化し、清国に二度に渡って侵略戦争を仕掛け、同国の関税自主権を奪って、強引にアヘンを売りつけた大英帝国の艦隊が日本に襲来する前に、相対的に穏当な交渉相手であるアメリカのタウンゼント・ハリスとの間で、少しでも日本に有利な内容の最恵国条約を結んでしまおうというものであり、そのためには朝廷の勅許など待ってはいられなかった。朝廷の勅許にこだわっていたのは正睦と直弼であり、強い意志で条約の調印を決断したのは忠固であった。

直弼が松平慶永に語ったところによれば、老中、若年寄、三奉行海防掛の一同が揃った、調印当日の6月19日の午前中の城中評議の席上、直弼は「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、勅許を優先させることを訴えたが、忠固が「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張。若年寄の本多忠徳以外はみな忠固に賛成した。結局そのまま調印に至った。条約調印の最終段階において直弼は無力だったのであり、忠固こそが閣議をリードしていた様子が窺える。直弼は完全に孤立したため、翌日、慶永のもとを訪れ「貴兄初の援助を依頼するの他なし。伊賀(忠固)抔は小身者の分際として此頃は権威を誇り、傍若無人の有様、此度の事抔も我意に任せて京都を押付んと致す條、言語道断なり」と怒りをぶつけ、忠固と正睦を失脚させる事への協力を依頼した[7]。忠固を失脚させるため、南紀派の直弼が一橋派と一時的に手を組んだのである。

条約調印から2日後の6月21日、老中5名の連署で、英仏連合軍が清国に打ち勝ち、そのまま日本に押し寄せてくる情勢なので、やむを得ずアメリカとの条約の調印に至った、という内容の奉書が京都に送られた。その奉書の中に大老・井伊直弼の名は無い。

条約の調印から4日後の6月23日、忠固は正睦と共に老中を免職、蟄居を命じられた。安政の大獄の始まりである。勅許を得ず条約を締結し、かつ朝廷に対して条約締結を事後報告で済ませたのは不遜の極みとして責任を取らされたともいわれ、あるいは閣内で直弼と権力を争うに至り、機先を制した直弼が異分子を排除したともいわれる。

なお日米修好通商条約の調印に先立ち、安政4年(1857年)忠固は産物会所を国元と江戸に設置し、上田藩の特産品であった生糸を江戸へ出荷する体制を作り上げ、生糸輸出を準備させていた。横浜開港と同時に生糸の輸出を始めたのも上田藩であった。その後、明治から昭和初期まで生糸が日本最大の輸出品として日本経済を支え続けたことを考えると、開国を見据えた忠固の先見性は確かなものであったことが分かる[独自研究?]。

安政6年(1859年)9月14日に急死、享年48。表向きには病死と報告されているが暗殺説もあり、跡継ぎが決まっていなかったため、家名断絶を恐れた藩により暗殺は極秘にされたという説である[8]


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