松平広忠
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また死後、慶長16年3月22日従二位大納言官位を贈られている[41]。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。

松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記)

天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎?志劔乎鞘仁志?与利、今仁至?二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比?、重天官位乎上給比?、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、

(訓読文)天皇(すめら、孝明天皇のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を?(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、
妻子に関する伝承
妻に関して

「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。

子女とその生母

生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元、親良についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。

伝通院との間にうまれた子

徳川家康[注釈 4]

多劫姫(一説に)[注釈 5]



大給松平二代乗正の娘「於久の方[注釈 6]との間の子

松平忠政[注釈 7]

樵暗恵最(僧)[注釈 8]



平原氏・娘との間の子

矢田姫[注釈 9]松平康忠の妻)



真喜姫[注釈 10]との間の子(一説に)

市場殿[注釈 11]荒川義広の妻)



その他

三郎五郎家元[注釈 12]

内藤信成(一説に)[注釈 13]

松平親良[注釈 14]



参考附記

「内藤家譜」→国立公文書館所蔵。請求番号157?0205。記事の下限は享保4年(1719年)であるが、これを内藤弌信村上藩移封とする誤りがある。また信成出生に関する記述は「別本 内藤家譜」の名で『大日本史料』12編ノ9に引用されている(1011から1015頁)。

「松平系諸集参考」→『国書総目録』などに所見がなく焼失もしくは散逸したと思われる。

「徳世系譜」→「徳世系譜実録」として国立公文書館に所蔵がある。請求番号149-0060

内藤清長→「寛政譜」13巻「内藤」183頁「某・弥次衛門」。内藤信成→同185頁および197頁では、内藤弥次衛門の養子で、実は嶋田久右衛門景信の子、母は内藤右京進某の娘とする。同5巻「嶋田」には「景信」の名は見当たらない。また「徳川幕府家譜」には「信成」とだけ記されている(35頁)。


その他

連歌師である宗牧が記した『東国紀行』にも広忠に関する記述がある。

天文12年(1543年)、広忠は三河国に下向していた勅使の三条西公頼に進納を行った。これを受けて朝廷では翌天文13年(1544年)に東国に下ることになった宗牧に広忠宛の女房奉書を託して感謝の意を伝えるように命じた。同年閏11月13日に岡崎に着いた宗牧はまずは筆頭重臣である阿部大蔵(定吉)に面会を求めた。しかし、来訪の趣旨を事前に伝えていたにもかかわらず、大蔵は不在で、しかも宿泊先の宿でも不手際があったらしく、不満を書き記している。翌日、大蔵が岡崎に戻ってきたために面会するが、出迎えの準備が出来ていなかったために見かねた石川忠成が代わりの茶の湯を設けた。その後、ようやく広忠に拝謁して奉書を渡すことができたという[43]
脚注
注釈[脚注の使い方]^ 近年の研究では最初から織田方への降伏の証として送られた可能性が指摘されている。詳しくは徳川家康#人質として今川家、そして織田家へを参照。
^ 村岡幹生も「織田信秀岡崎攻落考証」を自著『戦国期三河松平氏の研究』に採録した際、織田氏と今川氏の連携を認めた上で、今川義元が奥平定能に天文14年8月25日付で出した書状の中に「時宜変化の儀ありといえども」安堵すると念押ししていることから、岡崎城の攻防中に既に織田・今川の連携が破綻し、松平広忠が今川方に帰参すれば義元はこれを赦免する方針に向かっていたため、奥平定能に広忠赦免(今川方帰参)後も山中の領有を認める約束であったとしている[32]。なお、その後山中の地は奥平定能が三河?劇で今川から離反した際に広忠の遺児である元康(徳川家康)に還付されている[33]
^ なお、関連する論考として、信孝追放の原因を信孝が今川氏の三河進出に対応するために長沢松平家の所領を今川方である牧野氏に譲って関係を結ぼうとし、水野信元もそれに加担していたとする小林輝久彦の説[37]がある。また、戸田氏は渥美半島の国衆であるが、三河湾を挟んだ対岸の知多半島の河和や師崎にも分家の拠点があり、水野信元は知多半島の戸田氏勢力との関係から牧野氏と結んだ可能性もある。
^ 「柳営婦女伝系」では「広忠」と伝通院の間の子として「東照宮」および「女子」1人を記している(137頁)。家康と父母を同じくする兄弟ということになるが、「女子」ということ以外に記述がない。
^ 「改正三河後風土記」では広忠の娘として「多劫姫」を挙げる。しかし家康の異母妹かそれとも父母を同じくするかについては言及を避けている(上巻171頁)「御九族記」は多劫姫の母を伝通院とし、広忠の子として系図にかけ、久松家のそれにかけない(巻1)。「寛政譜」17巻・菅原氏「久松」(315頁)および1巻「桜井松平」(33頁)は久松俊勝との間の子としている。
^ 「朝野旧聞?藁」1巻610頁。また広忠の死後、尼となり「妙林」と称した旨の所伝が「寛政譜」にある(1巻221頁の按文)。酒井家(雅楽頭家)家臣松平孫三郎「久典」所蔵の家譜、三河・法蔵寺および広忠寺由緒書に拠るという。ただし、「柳営婦女伝」には記述がない。
^ 「朝野旧聞?藁」1巻610頁。「松平忠政遺状」によると、幼名を勘六といい、のち任官されて右京大夫「忠政」と称したという。松平孫三郎「久典」の系譜では「右京大夫又は右京進」とされている。「寛政譜」1巻221頁にその所伝が示されており、広忠が大子を妻とした後に三河国桑谷村に250石を与えられ、のち家康に仕えて従五位下となり、慶長4年(1599年)に没したという。また長子の孫三郎「康久」は酒井家家臣孫三郎「久典」の祖、次子右京進「長清」は彦太夫「忠明」(224頁)および分家・二郎右衛門「忠暁」(225頁)らの祖とする家伝が記されている。
^ 「朝野旧聞?藁」1巻620から622頁所載「松平忠政遺状」「松平彦太夫家伝」「広忠寺由緒書」および「寛政譜」1巻221頁による。「忠政」の弟穎新(えいしん)または恵新(けいしん)。広忠の意向により僧となり、のち樵暗恵最と名を改めた。ただし同書では、家康の異母兄弟である忠政がわずかな所領しか与えられなかったことや、「寛永諸家系図伝」など幕府保管の文書にその記録がみられないことから、一連の所伝を「不審なきにあらず」とする。また長沢松平分家「信強」(220頁)の祖・孫三郎「信重」(219および210頁)の子・右京「長次」(219頁)の子孫が不明とされているのは(同頁按文)、家祖を右京進「忠政」としたために起こった誤りではないかとし、「忠政」の子とされている右京進「長清」はこの右京「長次」のことであろうとしている(222頁按文)。

参考附記

「松平忠政遺状」→「朝野旧聞?藁」9巻274から276に全文と思われる記事が採録されている。

「法蔵寺由緒書」→西尾市岩瀬文庫に写本の所蔵があり(請求番号:98-76)、この影印複製本が岡崎市図書館にある。

「広忠寺由緒書」→『岡崎市史研究』11号(岡崎市史編さん委員会刊、1989年)所収、新行紀一「徳川家康の異母兄弟」には岡崎市史編さん事務局再訪史料によるとして「桑谷松平氏」「広忠寺之記」「古書写」「御由緒」の四点をあげている。岡崎市史編さん史料は全て岡崎市美術博物館に移管されている。


^ 松平上野介康忠の室を平原助之丞正次の娘とし(「柳営婦女伝系」137頁)その名を矢田姫とする(「寛政譜」1巻「長沢松平」211頁。「御九族記」同じ)。
^ 「寛政譜」14巻「戸田」318頁は弾正少弼「某」を「今の呈譜 康光に作る」とし、娘「真喜姫」を「広忠卿の簾中たり」と記している。
^ 「柳営婦女伝系」では荒川甲斐守頼持の室を平原氏娘の子とし(137頁)、それとは別に戸田弾正少弼康元娘の子として「一場御前」とする(「御九族記」同じ)。一方「松平記」()「改正三河後風土記」(上巻172頁)は広忠との間に子はなかったとしている。「寛政譜」2巻「吉良」は義広の室として「市場の御方」と記し(217頁)また「士林泝」巻37「荒川」は甲斐守「義弘」の子・次郎九郎「弘綱」の母を「広忠卿御女」とする(下記刊行本229頁)。


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