松平広忠
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^ なお、関連する論考として、信孝追放の原因を信孝が今川氏の三河進出に対応するために長沢松平家の所領を今川方である牧野氏に譲って関係を結ぼうとし、水野信元もそれに加担していたとする小林輝久彦の説[37]がある。また、戸田氏は渥美半島の国衆であるが、三河湾を挟んだ対岸の知多半島の河和や師崎にも分家の拠点があり、水野信元は知多半島の戸田氏勢力との関係から牧野氏と結んだ可能性もある。
^ 「柳営婦女伝系」では「広忠」と伝通院の間の子として「東照宮」および「女子」1人を記している(137頁)。家康と父母を同じくする兄弟ということになるが、「女子」ということ以外に記述がない。
^ 「改正三河後風土記」では広忠の娘として「多劫姫」を挙げる。しかし家康の異母妹かそれとも父母を同じくするかについては言及を避けている(上巻171頁)「御九族記」は多劫姫の母を伝通院とし、広忠の子として系図にかけ、久松家のそれにかけない(巻1)。「寛政譜」17巻・菅原氏「久松」(315頁)および1巻「桜井松平」(33頁)は久松俊勝との間の子としている。
^ 「朝野旧聞?藁」1巻610頁。また広忠の死後、尼となり「妙林」と称した旨の所伝が「寛政譜」にある(1巻221頁の按文)。酒井家(雅楽頭家)家臣松平孫三郎「久典」所蔵の家譜、三河・法蔵寺および広忠寺由緒書に拠るという。ただし、「柳営婦女伝」には記述がない。
^ 「朝野旧聞?藁」1巻610頁。「松平忠政遺状」によると、幼名を勘六といい、のち任官されて右京大夫「忠政」と称したという。松平孫三郎「久典」の系譜では「右京大夫又は右京進」とされている。「寛政譜」1巻221頁にその所伝が示されており、広忠が大子を妻とした後に三河国桑谷村に250石を与えられ、のち家康に仕えて従五位下となり、慶長4年(1599年)に没したという。また長子の孫三郎「康久」は酒井家家臣孫三郎「久典」の祖、次子右京進「長清」は彦太夫「忠明」(224頁)および分家・二郎右衛門「忠暁」(225頁)らの祖とする家伝が記されている。
^ 「朝野旧聞?藁」1巻620から622頁所載「松平忠政遺状」「松平彦太夫家伝」「広忠寺由緒書」および「寛政譜」1巻221頁による。「忠政」の弟穎新(えいしん)または恵新(けいしん)。広忠の意向により僧となり、のち樵暗恵最と名を改めた。ただし同書では、家康の異母兄弟である忠政がわずかな所領しか与えられなかったことや、「寛永諸家系図伝」など幕府保管の文書にその記録がみられないことから、一連の所伝を「不審なきにあらず」とする。また長沢松平分家「信強」(220頁)の祖・孫三郎「信重」(219および210頁)の子・右京「長次」(219頁)の子孫が不明とされているのは(同頁按文)、家祖を右京進「忠政」としたために起こった誤りではないかとし、「忠政」の子とされている右京進「長清」はこの右京「長次」のことであろうとしている(222頁按文)。

参考附記

「松平忠政遺状」→「朝野旧聞?藁」9巻274から276に全文と思われる記事が採録されている。

「法蔵寺由緒書」→西尾市岩瀬文庫に写本の所蔵があり(請求番号:98-76)、この影印複製本が岡崎市図書館にある。

「広忠寺由緒書」→『岡崎市史研究』11号(岡崎市史編さん委員会刊、1989年)所収、新行紀一「徳川家康の異母兄弟」には岡崎市史編さん事務局再訪史料によるとして「桑谷松平氏」「広忠寺之記」「古書写」「御由緒」の四点をあげている。岡崎市史編さん史料は全て岡崎市美術博物館に移管されている。


^ 松平上野介康忠の室を平原助之丞正次の娘とし(「柳営婦女伝系」137頁)その名を矢田姫とする(「寛政譜」1巻「長沢松平」211頁。「御九族記」同じ)。
^ 「寛政譜」14巻「戸田」318頁は弾正少弼「某」を「今の呈譜 康光に作る」とし、娘「真喜姫」を「広忠卿の簾中たり」と記している。
^ 「柳営婦女伝系」では荒川甲斐守頼持の室を平原氏娘の子とし(137頁)、それとは別に戸田弾正少弼康元娘の子として「一場御前」とする(「御九族記」同じ)。一方「松平記」()「改正三河後風土記」(上巻172頁)は広忠との間に子はなかったとしている。「寛政譜」2巻「吉良」は義広の室として「市場の御方」と記し(217頁)また「士林泝」巻37「荒川」は甲斐守「義弘」の子・次郎九郎「弘綱」の母を「広忠卿御女」とする(下記刊行本229頁)。しかしその生母についての記述はない。「市場殿」の呼称は「御九族記」巻1、「徳川幕府家譜」34頁、「徳川実紀」1巻24頁に示される。
^ 「徳川幕府家譜」35頁。広忠の死の前年、天文17年(1548年)の生まれで、その母の申し出により岡崎在城時代、家康に召抱られたという。また多病のため生涯隠棲し、慶長8年(1603年)に亡くなったとされている。
^ 「朝野旧聞?藁」1巻657頁および658頁以下。「内藤家譜」によるとその母は広忠の寵愛を受けて懐妊するが、前室(大子)に憚り、「島田久右衛門」平景信に預けられ、天文14年5月5日に信成を出生したという。一説に(「秘録」曰く、として)この女性は「小野次郎右衛門」の娘で、広忠の侍女であったといい(「松平系諸集参考」)、またいったん島田久右衛門に嫁したのち出生した男子を、内藤清長が養子として育てたのが、後の豊前守信成であるとする「徳世系譜」の所伝があるという。
^ 『寛政譜』巻四十四「松平」が載せる西福釜松平家の家伝によれば、2代目の松平信乗(松平親忠の孫にあたる)は広忠から懐妊した侍女を妻として与えられ、産まれてくる子供は信乗の家で養育するよう仰せつけられた。その子供が親良で、天文14年(1545年)生まれという。『寛政譜』按文では、そもそも松平行隆(親良の子とされるが、父の名には異説もある)以前の西福釜松平家の系図に大きな混乱があることを指摘し、父祖のことは「家伝」として載せるものの、系譜は行隆から始めている[42]西福釜松平家参照)。

出典^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。
^ 「武徳大成記」(1巻72頁)、「朝野旧聞?藁」(1巻407頁)、「徳川幕府家譜」らは、大永6年と記すに留めている。
^ 「三家考」、「御九族記」、「改正三河後風土記」(上巻151頁)、「徳川実紀」(1巻22頁)など
^ 「創業記考異」ただし一説として24歳とも記す。
^ 「三州八代記古伝集」
^ 「徳川幕府家譜」18頁「徳川実紀」1巻21頁
^ 広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫とする『新編岡崎市史6』851および852頁所収の「大林寺由緒」また「朝野旧聞?藁」1巻737頁「大樹寺御由緒書」も同旨
^ 「寛政譜」2巻217頁
^ 「寛政譜」1巻「長沢」211頁
^ 「同」2巻「酒井」47頁
^ 「三河物語」・「武徳大成記」1巻72頁
^ 『新編岡崎市史6』757頁所収「大樹寺文書44」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状
^ 「烈朝系譜」では竹千代または千松。「松源大譜系」では千松丸。「別本御系図」では仙千代。『三河物語』では千千代。『新編岡崎市史6』では千松丸。
^ 「徳川実紀」によれば、天文5年(1536年)2月。「三河物語」では、森山崩れの後10日も経たない頃。「三州八代記古伝集」では100日も過ぎない頃としている。
^ 「松平記」
^ 「三河物語」
^ 「寛永所家系図伝」
^ 村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P236.
^ 「徳川幕府家譜」によれば、持広の死去後、吉良義安の外交方針の変更により織田氏との連携が強まると再逃亡した
^ 茶園紘己「安城松平家における阿部大蔵の位置と役割」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P128-131.
^ 村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P223-231.
^ 村岡幹生「安城四代清康から広忠へ?守山崩れの真相と松平広忠の執政開始?」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P246-251.
^ 『寛政重修諸家譜』巻第三「松平 三木」
^ 「岡崎領主古記」
^ 村岡幹生によれば、この文書は越後長久山本成寺の第九世の日覚が隠居後に越中井田菩提心院から本成寺送ったもので、日覚自身が尾張国出身で今川氏家臣の鵜殿氏の帰依を受けていたことから尾張・三河に一定の人脈を持つ人物と評価されている(村岡(大石)、2019年、P354-359.)。
^ a b 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』、平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P40-42.
^ 村岡は他にも織田信秀が北条氏康に今川氏の挟撃を誘った際の返答とみられる「天文17年3月11日付織田信秀宛北条氏康書状」(『神奈川県史資料編3古代・中世(3下)』6852号/愛知県史『中世3』1658号)においても、氏康が織田信秀が岡崎に、今川義元が今橋に進出したと認識していることが記されていると指摘する(村岡(大石)、2019年、P361-369.)。
^ 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学論叢』1号、2015年。後に大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年)に所収)
^ 平野明夫「家康は、いつ今川氏から完全に自立したのか」(平野 編『家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2017年)
^ 大石泰史 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年 天文15年?永禄3年節

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