松平広忠
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近年になって、天文16年(1547年)9月に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする古文書(「本成寺文書」『古証文』/『戦国遺文』今川氏編第2巻965号[25])の発見[26]をきっかけに、村岡幹生が同年に織田軍の侵攻によって岡崎城が陥落[27]して松平広忠が降伏を余儀なくされたのではないかとする説を唱えた[28]。この岡崎城陥落については研究者による一定の支持を得ているものの、この時の松平広忠の政治的な立場について、従来の通説通りに今川氏の傘下として織田氏の侵攻を受けたとみる村岡幹生と広忠が戸田氏らと共に今川氏からの自立を策して、それに対抗すべく今川義元と織田信秀が手を結んで三河侵攻を行ったとする平野明夫[29]や糟谷幸裕[30]の意見が対立している[31][注釈 2]。また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは戸田康光の裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている[26][34]。なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れた酒井忠尚らであったとみられ、更に牧野氏もこの動きに加わったとされる[34]。最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前(すなわち信秀が岡崎城から撤退した直後)と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている[35]。一方、柴は『武家聞伝記』に天文17年(1548年)に斎藤利政(道三)が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている[34]

いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた[36]」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。
婚姻と離別

「武徳大成記」は大子(伝通院)との婚姻は天文10年(1540年)としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の水野忠政の卒去により、家督を継いだ水野信元が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。

「岡崎領主古記」は大子との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。

なお、小川雄は、広忠と伝通院の婚姻が行われたのは、松平信孝が広忠の後見をしていた時期にあたり、水野氏との同盟や伝通院との婚姻も信孝主導であったとする。従って、広忠と重臣たちが信孝を追放したことによって水野氏との同盟関係も破綻することになり、離縁に至ったとする説を唱えている。また、小川は広忠の再婚相手が戸田康光の娘(戸田御前)であったのも、水野氏や信孝が牧野氏と結んでいるために、牧野氏と対立する戸田氏を新たな同盟者として選んだとしている[注釈 3][38]

大子との関係でいえば、彼女の再婚相手である坂部城久松俊勝を通じて尾張国知多郡に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年(1545年)「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(常滑市北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171頁所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。
大樹寺内にある松平八代墓の松平広忠の墓松平広忠と一族の墓(法蔵寺)松平広忠公御廟所(松應寺松平広忠の墓(大林寺)岡崎市桑谷町にある広忠寺。1562年、徳川家康によって広忠の菩提を弔うために創建された。

広忠は天文18年(1549年)3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。

死因に関しても諸説がある

病死とするもの→「三河物語」・「松平記」など

岩松八弥(片目八弥)によって殺害されたと記すもの→「岡崎領主古記」

一揆により殺害されたとするもの→「三河東泉記」。天文18年3月、鷹狩の際に「岡崎領分 渡利村の一揆生害なし奉る」と記す(下記所蔵本15丁左)。またこれを織田信秀の武略としている。『岡崎市史別巻』に採録されている。

三河東泉記には、岡崎城に在城の時、片目弥八に村正の刀で殺害された。上村新六が、弥八を討ち取った、という記述も紹介されている。(三河東泉記全74ページ目)

「武徳大成記」のほか「家忠日記増補」・「創業記考異」・「烈祖成績」などいずれも病死説を採る。「徳川実紀」・「朝野旧聞?藁」も同じ。『朝野旧聞?藁』採録記事は次のとおり(1巻737頁以下)


「松平記」:天文18年春より「御煩あり」、同3月18日卒去。24歳

「官本三河記」:同じく「18年春広忠病気」、3月6日卒、24歳

「家忠日記増補」6日卒去、24歳

「三岡記」:「御病気」3月6日卒。「病気連年疱証ト云々」とする。

「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および国立公文書館所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞?藁」の記述は誤写と思われる。

『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説を採り、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。明智憲三郎は織田信秀が岩松八弥を抱き込んで広忠を暗殺させた可能性を提示している[39]

これに対して、村岡幹生は『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認めているが、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している[40]

なお近年の歴史ドラマでは松平家の悲劇性を強調するためか暗殺説を採用する例が多く、NHK大河ドラマの中で家康の一代記を扱った1983年の「徳川家康」及び2023年の「どうする家康」では、共に暗殺説を採用している。このため、暗殺説が最も広く知られた学説となっている。
葬地と法名、贈官位

葬地は愛知県岡崎市大樹寺(「朝野旧聞?藁」1巻737頁所載「大樹寺御由緒書」。「御九族記」および「徳川幕府家譜」19頁に同じ)。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19頁)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞?藁」1巻738頁所載。「御九族記」おなじ)。

現在大樹寺に加え、大林寺松應寺法蔵寺・広忠寺と5つの墓所が岡崎市にある。

また死後、慶長16年3月22日従二位大納言官位を贈られている[41]。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。

松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記)

天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎?志劔乎鞘仁志?与利、今仁至?二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比?、重天官位乎上給比?、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、

(訓読文)天皇(すめら、孝明天皇のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を?(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、
妻子に関する伝承
妻に関して

「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。

子女とその生母

生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元、親良についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。

伝通院との間にうまれた子

徳川家康[注釈 4]

多劫姫(一説に)[注釈 5]



大給松平二代乗正の娘「於久の方[注釈 6]との間の子


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