松平広忠
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一方、村岡幹生は、森山崩れは安城家の一門(信定・信孝ら)及び家臣と旧岡崎家の家臣の対立に端を発する阿部大蔵によるクーデターで、阿部が広忠を連れて逃亡したために信定や信孝は事態収拾のために岡崎城に入った、その後家中の広忠擁立論や今川氏の介入を受けて広忠を当主にするために和睦が図られて阿部も赦免がされたが、広忠の後見を巡って信孝と阿部の対立が続いた、と推測している[21][22]


この間、譜代の家臣らが広忠の岡崎城帰還を望んでおり、阿部定吉や大久保忠俊らが尽力していることが諸書からうかがえる。

この頃の広忠の動向は史料によって差異があるため、正確な時期等にも差異がある。叔父の松平信孝も広忠を支援する方針であったらしく、大久保らと共に広忠帰還を支援している[23]。いずれにせよ、天文年間に広忠は信定から岡崎城を奪還した。
織田氏の三河進攻

広忠の後半生は三河へ進攻する織田氏との戦いに費やされていたようである。天文9年(1540年)、織田軍が安祥城へ侵攻し、6月に合戦となった(第一次安城合戦[24]。この戦いにおいて城代・松平長家が討死(自害とも)した。

「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが、こちらでは安祥城は陥落しておらず、松平利長松平忠次らが防戦して敵が退いたと記されている。安祥城落城の時期については諸説あるが、いずれにしろ西三河における織田氏の勢力は拡大していたようである。

天文10年(1541年)、水野忠政の娘・於大の方と婚姻する。

天文11年(1542年)、今川義元は三河から織田氏勢力を駆逐するべく大軍を発し、織田信秀も対抗するべく兵4千を率いて安祥に出陣し、8月に両者は激突した(第一次小豆坂の戦い)。この戦いでは織田信秀が勝利した。(ただし、この戦いには虚構説もある。)

同年12月26日、嫡男・竹千代(後の徳川家康)が誕生する。

『寛政譜』によれば、広忠は松平信孝を重用したが権勢をふるって増長し、松平親長や、弟の康孝の遺領を押領した。そして「岡崎の老臣等」が信孝の増長を警戒したという。広忠は信孝が今川氏に年始の使者として派遣されている隙に妻子や家臣を岡崎から追放し、天文12年(1543年)頃、信孝は上和田城主・松平忠倫酒井忠尚らと共に織田信秀に通じて離反した。その後も幾度か安祥で織田勢と合戦し、信孝とも戦っている。

於大の方の兄で水野氏当主の水野信元は、天文13年(1544年)に今川氏と絶縁して織田氏に寝返った。このため広忠は、同年9月に今川氏との関係を慮って於大の方を離縁した。天文14年(1545年)には桜井松平家の松平清定家次らを攻撃している。(広畔畷の戦い)

天文14年(1545年)9月、織田氏の下にあった安祥城に侵攻したが敗北し、本多忠豊が身代わりとなって討死した。

広忠は、織田氏の三河侵攻に対抗する見返りに竹千代を人質として送ることとなった。しかし戸田康光の裏切りにより竹千代は織田方に拉致された[注釈 1]

天文17年(1548年)3月19日、小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には松平重弘兄弟の山中城を落とした。同月三河冑山にて信孝と対陣。菅生川原で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。天文18年(1549年)2月20日、再び織田勢と対陣、勝利を得て織田信広を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命通り人質として駿府へ移送した。

天文18年(1549年)3月6日、死去した(後述)。享年24。
異説
岡崎城をめぐる攻防

近年になって、天文16年(1547年)9月に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする古文書(「本成寺文書」『古証文』/『戦国遺文』今川氏編第2巻965号[25])の発見[26]をきっかけに、村岡幹生が同年に織田軍の侵攻によって岡崎城が陥落[27]して松平広忠が降伏を余儀なくされたのではないかとする説を唱えた[28]。この岡崎城陥落については研究者による一定の支持を得ているものの、この時の松平広忠の政治的な立場について、従来の通説通りに今川氏の傘下として織田氏の侵攻を受けたとみる村岡幹生と広忠が戸田氏らと共に今川氏からの自立を策して、それに対抗すべく今川義元と織田信秀が手を結んで三河侵攻を行ったとする平野明夫[29]や糟谷幸裕[30]の意見が対立している[31][注釈 2]。また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは戸田康光の裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている[26][34]。なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れた酒井忠尚らであったとみられ、更に牧野氏もこの動きに加わったとされる[34]。最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前(すなわち信秀が岡崎城から撤退した直後)と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている[35]。一方、柴は『武家聞伝記』に天文17年(1548年)に斎藤利政(道三)が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている[34]

いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた[36]」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。
婚姻と離別

「武徳大成記」は大子(伝通院)との婚姻は天文10年(1540年)としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の水野忠政の卒去により、家督を継いだ水野信元が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。

「岡崎領主古記」は大子との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。

なお、小川雄は、広忠と伝通院の婚姻が行われたのは、松平信孝が広忠の後見をしていた時期にあたり、水野氏との同盟や伝通院との婚姻も信孝主導であったとする。従って、広忠と重臣たちが信孝を追放したことによって水野氏との同盟関係も破綻することになり、離縁に至ったとする説を唱えている。また、小川は広忠の再婚相手が戸田康光の娘(戸田御前)であったのも、水野氏や信孝が牧野氏と結んでいるために、牧野氏と対立する戸田氏を新たな同盟者として選んだとしている[注釈 3][38]

大子との関係でいえば、彼女の再婚相手である坂部城久松俊勝を通じて尾張国知多郡に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年(1545年)「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(常滑市北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171頁所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。
大樹寺内にある松平八代墓の松平広忠の墓松平広忠と一族の墓(法蔵寺)松平広忠公御廟所(松應寺松平広忠の墓(大林寺)岡崎市桑谷町にある広忠寺。1562年、徳川家康によって広忠の菩提を弔うために創建された。

広忠は天文18年(1549年)3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。

死因に関しても諸説がある

病死とするもの→「三河物語」・「松平記」など

岩松八弥(片目八弥)によって殺害されたと記すもの→「岡崎領主古記」

一揆により殺害されたとするもの→「三河東泉記」。天文18年3月、鷹狩の際に「岡崎領分 渡利村の一揆生害なし奉る」と記す(下記所蔵本15丁左)。またこれを織田信秀の武略としている。『岡崎市史別巻』に採録されている。

三河東泉記には、岡崎城に在城の時、片目弥八に村正の刀で殺害された。上村新六が、弥八を討ち取った、という記述も紹介されている。(三河東泉記全74ページ目)

「武徳大成記」のほか「家忠日記増補」・「創業記考異」・「烈祖成績」などいずれも病死説を採る。「徳川実紀」・「朝野旧聞?藁」も同じ。『朝野旧聞?藁』採録記事は次のとおり(1巻737頁以下)


「松平記」:天文18年春より「御煩あり」、同3月18日卒去。24歳

「官本三河記」:同じく「18年春広忠病気」、3月6日卒、24歳

「家忠日記増補」6日卒去、24歳

「三岡記」:「御病気」3月6日卒。「病気連年疱証ト云々」とする。

「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および国立公文書館所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞?藁」の記述は誤写と思われる。


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