松平家
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この期に乗じた幕府政所執事伊勢貞親被官の北三の松平信光や尾張出身の戸田宗光が勢力を伸ばした。応仁の乱では、松平信光は三河守護細川成之とともに、三河復権を狙う一色氏を破った。なお松平氏は信光の時の内室が一色宗義娘であるとされ、一色氏と姻戚関係にあったとされる[9]
戦国期
安祥松平

戦国時代に信光は、岩津から南下し、岡崎城安祥城を勢力下に置くなど勢力を広げ、自身の子を分立して、竹谷松平家安祥松平家形原松平家岡崎松平家大草松平家)、五井松平家深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家といった分家を各地に置いた[10]

信光の子のうち、碧海郡安祥城安城市)を与えられた安祥松平家初代の三男親忠1501年没。のち宗家4代に数えられる)は、井田野(岡崎市井田町周辺)[注釈 8]中条氏らを破り武勇を上げたほか、当初与えられていた鴨田郷(岡崎市鴨田町)の館跡に、増上寺開山聖聡孫弟子の愚底を呼び松平氏菩提寺大樹寺を建立した[12][13][14]。また、聖聡弟子の了暁を開山として大恩寺(愛知県豊川市御津町)を中興し、同寺で学んだ第4子の存牛浄土宗総本山知恩院住持を務め皇室との関係を深めた。

親忠の嫡子長親(天文13年(1544年)没。5代)は、今川軍を率いて三河に侵攻してきた伊勢宗端(北条早雲)[注釈 9]を、岩津城下井田野(岡崎市井田町周辺)で破ったが、これらの混乱のなか宗家の岩津松平家は滅び、代わって安祥松平家が勢力を拡大し、松平宗家化するとともに戦国大名へと発展していった。

この安祥松平家に仕えた家臣は、安祥譜代と呼ばれ、徳川最古参の家臣として、『柳営秘鑑』および『三河物語』に記載されている。とりわけ、酒井氏は松平郷時代からの家臣で、松平氏の同族ともいわれる。7代清康による山中城攻略、岡崎城攻略以降の時代は、山中譜代、岡崎譜代として、2番目に記載されている。徳川家臣団の形成に、安祥城時代が大きな影響を及ぼした。

『改正三河後風土記』に「三州十八松平家の事、徳川家是ハ御本家をさしていふ。昌安より岡崎城を清康君に献じ徳川家安祥岡崎を兼領し給ふ」と記載されており、本家・分家の関係が詳細に記述されている。

安祥松平家の台頭後も、宗家の座を狙う松平一族の間に内紛が続き、6代に数えられる信忠1531年没)は一族を抑えられず、1523年に父・長親の命で若くして隠居させられた。
清康による躍進と今川氏への従属

代わって13歳で家督を相続した7代清康(天文4年(1535年)没)は翌年岡崎松平家山中城を攻略。明大寺城、岡崎城を取得し、本拠を岡崎に移した[15][16]。岡崎の地では、城下町形成や、岡崎五人衆・代官・小代官体制などの整備を行った。清康は加茂郡・渥美郡の諸豪族を攻めて北三河・東三河まで服属させ三河の統一を進めたが、西に転戦して尾張へと進出したところで家臣に刺殺されてしまった(森山崩れ)。

8代広忠(天文18年(1549年)没)は父清康が死んだとき10歳の幼さで、三河と内紛状態となった松平一族を統御できず、駿河の戦国大名今川氏の庇護下に入った。混乱の中重要拠点の安祥城は織田に奪われ、現在の岡崎市内で、織田対今川・松平連合軍の間で小豆坂の戦いが行われた。しかし、父の清康時代の勢力を取り戻すには至らず、若くして亡くなった。

安祥松平家による岡崎奪取以前の、「光重」-「親貞」=「昌安(信貞)」にいたる旧・岡崎城主家を、安祥家に対して岡崎松平家と呼ぶことがある。後述の「大草松平家」がこれにあたる。
家康の徳川改姓と松平諸家の家臣化

広忠の嫡子・竹千代(9代。元服して元康)は今川氏人質として駿府に送られ、松平氏の三河支配は実質的に中断を余儀なくされた。一方、清康にも広忠にも公式には嫡子以外の男子がいないため(落胤がいたとの説はある)、広忠の死去当時8歳であった竹千代を後見する親族がおらず、また、竹千代の身に万が一があった場合にはそのまま松平氏の滅亡につながる状況にあった。


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