松平定信
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光太夫のキリスト教国からの帰国により、蘭学者勢力の隆盛をもたらした[* 8]

定信の辞任は尊号一件が原因と言われることが多い。大政委任論では朝廷の権威を幕政に利用するが、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王太上天皇の尊号を贈ろうとすると朱子学を奉じていた定信は反対し、この尊号一件を契機に、父である治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていた将軍・家斉とも対立していた。また、一橋治済の実兄である松平重富の官位昇進や治済の二の丸への転居も企てており、これを定信は尾張・水戸両家と共にこれを却下していた。以下の逸話が伝わっている。将軍・家斉と対立し、怒った家斉は小姓から刀を受け取って定信に斬りかかろうとした。しかし御側御用取次・平岡頼長が機転を利かせて、「越中殿(定信)、御刀を賜るゆえ、お早く拝戴なされよ」と叫んだために家斉も拍子抜けし、定信に刀を授けて下がったという[22]

寛政6年、定信の帰国が予定される中で、尾張・水戸両家は松平信明本多忠籌に対し、下々が定信を惜しんでいると聞いているので御用部屋にて政治に関与しているように装うべきではないかと伝えた。だが、当時幕閣内部においても定信の政治の独裁的傾向への反発が強まっていた。両名は世上では彼を惜しんでいるというが、皆がそういうわけではない。彼を世上の感情のみを配慮して用いるのは、政治の軽視にあたる、などと拒否している[23]

だが、定信引退後も幕府には、三河吉田藩主・松平信明越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信の政治方針を引き継いだ老中達がそのまま留任し、その政策を引き継いだ。彼らは寛政の遺老と呼ばれ、寛政の改革の路線は維持されることとなった。定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。
洋学への強い関心

定信は軍事関係の知識を中心に洋学に強い興味を持っていた。定信はオランダ語を学ぼうとしたものの、蘭書を読む域には達せなかったため、寛政4年に元オランダ通詞である石井庄助を、寛政5年に蘭方医である森島中良を召し抱えている。石井は定信より定信が収集した洋書の翻訳を命じられ、軍事関係の事項を抜粋した「遠西軍書考」を編纂している。石井は寛政6-7年に「蘭仏辞典」を訳しており、これに稲村三伯らが手を加え、日本最初の蘭日辞典である「ハルマ和解」が完成した。寛政元年、北方の地理やロシアについての情報を得る為、「ニューウェ・アトラス」という地図を入手しオランダ通詞の本木良永に訳させている。さらに、田沼時代の幕府に折る改暦事業を引き継ごうとして、寛政3年には自らが所蔵する天文書をこれもまた本木良永に訳させ寛政5年に幕府に献上している。自然科学についての関心も深く、ガラス製のリユクトポンプ(空気ポンプ)を作らせ、鳥などを入れて空気を出し入れすることで、生き物にとって空気が不可欠であることを証明する実験を行っている。洋画収集を趣味として持っており、亜欧堂田善に洋式銅版画の技術を学ばせている。これは地図など海防上での利点の効果も期待していた。他にもトランペットの模造や「蛮国」製の万力の模造品を作らせ浴恩園にて操作させている。軍事本ではないが、オランダの植物学者ドドネウスが書いた草木譜CRVYDT-BOECKの翻訳を石井当光,吉田正恭らに全訳を命じ「ドドネウス草木譜」を作らせている[24][25]
その後

老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念する。白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は軽輩の家臣の子女への内職としてキセルや織物を推し進め、南須釜村・北須釜村にたたら製鉄の設備を作り、城下に薬園を設け、朝鮮人参や附子などの薬草を栽培させた。特に附子は小野蘭山の著書「本草綱目啓蒙」のなかにおいて、江戸では良質であるため白河附子として珍重されていると記載されている。そのほか、塗物役所を設置したり、孟宗竹・生姜・たばこ・藺草の栽培・馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた[26]

教育にも力をいれ、1791年、白河藩の藩校となる立教館を創設、続いて1799年に、庶民教育のために城の大手門前と須賀川町に郷校として敷教舎を設立するなどと藩士、庶民への教育を施した。

また、1801年には日本最古の公園とされる南湖と名付けた一万六千坪の庭園を竣工している。この庭園は他大名の物と違い塀も柵もなく「士民共楽」という思想の元、庶民にも開かれており家臣や庶民を慰撫した。さらに、民政にも尽力し、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し名君として慕われた。だが同時にその厳しい倹約政策から不満を漏らす家臣の記録もまた残っている。

ところが、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が文化7年(1810年)に実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した。

文化9年(1812年)、家督を長男の定永に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。ただし異説として、前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった定永が、江戸湾岸の下総佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図ったために、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある。
最期松平定信墓地門(霊巌寺松平定信の墓(霊巌寺)

文政12年(1829年)の1月下旬から風邪をひき、2月3日には高熱を発した。3月21日には神田佐久間町河岸から出火し、火が日本橋から芝まで広がり、多数の建物が焼失し2800余人の焼死者が出たが、松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、さらに中屋敷も類焼したため、定信は避難する事となるが、避難する際に定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送されたため、道が塞がって民衆が迷惑したという。さらにこの時、松平家の家人が邪魔な町人を斬り殺したという噂が世上に流布した。この時の大火に関する落首や落書があり、「越中(定信)が、抜身で逃る、其跡へ、かはをかぶつて、逃る越前(福井藩のことで、福井藩にも町人を斬り殺した噂が流布していた)」「ふんどしと、かはかぶりが、大かぶり」と無届の一枚刷りによって多数刊行された[27]。これは寛政の改革の際に出版統制を行った定信に対する業界の復讐であったとされる[28]

屋敷の焼失により、定信は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難したが、手狭のため4月18日に松山藩の三田の中屋敷に移った[28]。この仮屋敷の中で病床にあった定信は家臣らと歌会を開き、嫡子の定永と藩政に関して語り合った。一時は回復の兆しも見せたが、5月13日の八つ時(午後2時)頃から呻き声をあげ始め、七つ時頃(申の刻、午後4時)に医師が診察する中で[29]、急に脈拍が変わり、死去した[30]享年72 (満70歳没)。

辞世は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」。墓地は東京都江東区白河の霊巌寺にある。
田沼政権との連続性

通説では松平定信は田沼意次の政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。

徳川黎明会徳川林政史研究所編著『江戸時代の古文書を読む―寛政の改革』においては、「定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、現実の政治は、田沼政治を継承した面が多々みられる。とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農と連携しながらその改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたといってよいであろう」としている[31]

日本中世・近世史を専門とする高木久史は自書『通貨の日本史』の中で、近年では定信と田沼政権との間には連続面があったことも重視されていると書き、その一つとして通貨政策をあげている。定信は1788年、江戸の物価を抑えるため[* 9]に明和二朱銀の製造を停止し元文銀を増産させた。定信は田沼が発行した二朱銀を否定していたという通説があるが、高木は「製造は停止したが、通用は停止していない。あくまで金貨・銀貨相場を是正しようとしたものであり、田沼政権の通貨政策そのものを否定しようとしたわけではない。1790年には、二朱銀を、あまり通用していなかった西日本[* 10]の各国でも使うよう強制した。その結果、金貨単位計量銀貨の使用がむしろ定信政権の時期になって広まった。新井白石が萩原重秀の通貨政策をことごとく覆したことと対照的である」[2]と書いている。

他の通貨政策としては吉宗は紙幣の通用を解禁したが、田沼は金札・銭札、許可したもの以外の銀札の通用を停止する[2]など、紙幣経済の発達を阻害するような政策を行ったが、松平定信は寛政2年(1790年)に伊勢神宮の御師や伊勢山田商人が発行していた山田羽書山田奉行(伊勢奉行)発行に変更し、準備金の範囲内での発行、偽札対策などを徹底させるなどといった近代的な紙幣政策を行っており、山田羽書は事実上の幕府発行の紙幣といえる状態にするなどと紙幣政策においては、むしろ田沼よりも進歩的な政策を行っている。山田羽書が幕府すなわち山田奉行所の管理下に置かれたことにより、商人の都合による乱発が防がれ、通貨供給量が安定することとなった[* 11]

日本近世史を研究する藤田覚は自書「勘定奉行の江戸時代」の中で、「寛政から文化期の財政経済政策は、緊縮により財政収支の均衡を図ることを基本とし、批判の強かった運上・冥加金の請負事業の一部を撤回したが、基本的に田沼時代を引き継ぎ、独自の積極的な増収策をみることはできない」[32]と書き、寛政の改革・遺老の経済政策は独自の政策はないものの、運上・冥加金の一部撤回を除けば、基本的に田沼時代を引き継いでいると述べている。


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